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事件がきっかけで、後に妻となる藤田紀子と出会う

 このヤマがきっかけとなって、後に妻となる藤田紀子には可哀想な人生を選ばせてしまった。 

 1人の女性としてみれば、これほど気の毒なことはないという。

 当時、藤田紀子は大阪樟蔭女子大学短期大学部に通っていた。高校時代までを過ごした郷里鹿児島から上阪。同じ学校に通学する友人の東大阪市の実家の離れに下宿していた。離れとはいっても、三畳一間の別棟。どちらかというと、物置に近い造りである。

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 許と紀子は同い歳。当時18歳。ただ、許は2月で早生まれだが、彼女の誕生日は7月。学年では許より1つ下になる。

 当時の大阪で大工大は近畿大学の次に格付けされていた。許が通うくらいだから、もちろん、「硬派度」においてである。応援団が幅を利かしていて、空手部が強く、何よりもヤンチャな学生がやたらとたくさん闊歩していた。

 空手部の許の連れが樟蔭の女の子と付き合っていた。その男と彼女が会う場に許も呼ばれた。その彼女が頭数をそろえるために「もう1人、友達を連れてくるから」と連れてきてくれたのが紀子だった。

可愛い女の子だった紀子を一発で気に入って…

 昭和も40年代の話。もう大昔のことである。当節のように「合コン」などというお洒落な場などあろうはずがない。若い男女は喫茶店で落ち合って、ただお茶を飲むだけ。それが楽しみだった。一言でいえば、紀子は可愛い女の子だったという。気性もいい。許は一発で気に入ってしまった。「惚れた」というのとは少し違う。

 もっとも、向こうは明らかに彼を嫌がっていた。紀子はごく普通の短大生だ。その時分に流行したアイビールックが似合うボーイフレンドでも見つけて、楽しく学生生活を送りたかったのだろう。しかしながら、彼はアイビーなぞとは無縁だった。学ランこそ羽織ってはいなかったが、なんとも垢抜けない。

「闇社会の帝王」と呼ばれた許永中 ©文藝春秋

 背広といえば、まず、「自分を大きく見せたい」という意識が先に立つ。ダブルのスーツで決めてはいるが、一皮むくと、ダボシャツに腹巻が露わになる。繁華街でデートするのはさすがにはばかられるコーディネート。

 だが、当時の不良にとっては標準装備である。きちんとした身なりやスタイリッシュな格好をしている友達は、許の周囲にいなかった。スマートさなどかけらもなく、おっさんそのものだった。

 だが、どういうわけか、当時の彼には、それが「粋」に映っていた。

 彼女が敬遠するのも無理はない。今の言葉でいえば、「引いて」いた。

 ところが、そんなことでめげる許ではない。しぶとく、紀子に「次、また会おう」と約束を取り付けた。半ば強引に。