大阪・中津の在日韓国人地区で生まれ育ち、喧嘩に明け暮れアウトローの道へと突き進んだ許永中。イトマン事件、石橋産業事件で暗躍し、「闇社会の帝王」「戦後最大の黒幕」と呼ばれた。

 ここでは、そんな許永中の波乱万丈な人生を綴った『許 永中独占インタビュー「血と闇と私」』(宝島社)より一部を抜粋。「闇社会の帝王」と呼ばれた彼の“恐ろしすぎる素顔”を紹介する。(全4回の4回目/3回目から続く)

写真はイメージ ©アフロ

◆◆◆

ADVERTISEMENT

「東邦エンタープライズ」お披露目

 昭和54年4月、東邦生命大阪ビルや東京の馬喰町にあった立派なビルのワンフロアを私は借り切った。「東邦エンタープライズ」のお披露目である。レジャー会員券を扱う会社であった。

「レジャーコラボ」に乗り出すつもりだった。

 資本金は8000万円で開発を手掛ける。ビルを借りるに当たって、内装だけでも破格の費用をかけた。とにかく構えだけはきちんとしなければならない。

 社長は、野村雄作、社長室長は、私、野村永中、専務に大谷貴義を紹介してくれた元産経新聞の西村嘉一郎が就いた。東邦生命の代理店である東邦産商を経営していた野村周史に後ろ盾になってもらった。

 野村雄作が一計を案じた。東邦生命の保険契約者を集めて、「かんがるうくらぶ」という団体をつくった。名称は東邦生命の社章にあしらわれたカンガルーから取った。ロゴには、カンガルーの横顔を使っている。自分でいうのも何だが、なかなかかわいい。

 パンフレットには謳いあげた。

『20万円で別荘の所有権を持てるうえ、ゴルフ場の会員権もついている』

 私はプラスアルファを用意した。中村錦之助のコマーシャルへの起用である。

「錦之助を、使わせてもらえませんか」ギャラ3000万円で交渉

 錦之助は、『一心太助』『宮本武蔵』シリーズなどの当たり役を持つ東映時代劇の大スターであった。昭和47年からは萬屋錦之助の芸名に変えていた。

 錦之助に力のある住吉一家小林会初代会長、日本青年社初代会長の小林楠扶に、私は頼み込んだ。このときまで、私と小林の間に接点は何もない。直談判で交渉するしかなかった。ギャラは3000万円を積んだ。

「錦之助を、使わせてもらえませんか」

 昭和54年といえば、錦之助の仕事がちょうど減っている時期であった。

 京都の東山区高台寺枡屋町にある老舗料亭の京大和。稀代の名優担ぎ出し交渉の舞台にはふさわしい。

 錦之助は当時の妻の淡路恵子を伴って姿を現した。ただし、小林は同席していない。