――コロボックルが「おみとりさん」という解釈は作中でも語られますね。「おみとりさん」とは、助かる見込みのなくなった患者のお看取りをしてくれる人で、〈資格のない、流しの付添婦らしい〉とありますね。
朝倉 「おみとりさん」というのは私が作った言葉なんです。友達のお父様が亡くなった時に、「その人が付き添うと、大変安らかに逝ける伝説の付添婦がいる」という話を聞いたんですよ。お年寄りたちの間の都市伝説としていいなと思って、ずっと頭に残っていました。
――自分が小さい頃に読んだ時は、そういう死に絡んだ連想はしなかったんですよ。なので、年齢を重ねて読むと解釈も変わるんだなと感じました。他にも、作中の「こいはいいぞ」という台詞は「鯉」と「恋」のダブルミーニングとして読めるなど、はじめて気づいたことがたくさんありました。
朝倉 たとえばオタクの人たちって、さまざまな角度から作品を解釈するじゃないですか。私はその空気感が好きだし、この読書会ともちょっと似ているのかなと思う。
あと、子供の時に、みんなで集まって「あそこに住んでいる人は、きっと子供を食べる人だよ」とか、すごい作り話をして盛り上がったりしませんでした? それで「大変だ!」とか言って、ピンポン押して逃げたりして。この読書会では、その延長というか、自由な発想を楽しんでいる気がする(笑)。
――正解を求めるんじゃなくて、自由に語り合える空気がいいですね。戦争に言及される部分を読んだ時は、みんな自身の戦争体験を語り始めるし。
朝倉 基本的に何を言ってもいいんですよね。それはもちろん、ある程度信頼関係があるからというのが前提にあります。さすがに今日急に集まった初対面の人たちの間では、ここまで素直に思ったことを発表できないじゃないですか。
――もう二十年続いている読書会ですからね。毎回のようにまちゃえさんが若くして亡くなった息子を思い出して泣いたり、時には参加者同士が衝突したりもするけれど、みんな仲がいい。
朝倉 読み返した時に、みんながむき出しでものすごく人間臭いと思いました。ただ、参加者同士は同じ生活圏内に暮らしてはいなくて、会うのもこの読書会の時だけ。逆に、これが同じ町内会の人同士で、ここにいる時以外の自分をよく知っている人ばかりの集まりだったら、ここまで自由にできないと思う。強すぎない繫がりで、互いのプライベートはあまり知らない人たちだからこそできるのかな、って。
――『だれも知らない小さな国』以外にも、過去の課題図書として石井桃子の『幼ものがたり』やエーリヒ・ケストナーの『わたしが子どもだったころ』といった、著者が自分の幼少期を語った本のタイトルが出てきますよね。それも参加者は自分の幼少期と重ね合わせて感想が語りやすかったでしょうね。
朝倉 語りやすいと思います。彼らより少し年上の作家が書いた、作家自身の小さい頃の話って面白いんですよ。どこか懐かしい感じがするし、言葉がきれいだし、私も好きでした。読み返してみて、やっぱり石井桃子さんって素晴らしいなと改めて思いましたね。
――読書会の選書って案外、そうした本や、児童書やYA(ヤングアダルト)がいいのかなと思いました。
朝倉 私もそう思います。子供向けに書かれた名作って、子供がいろんなことを考えたり思ったりできるように書いてあるから、大人が読んでもいろんな感想が出てくるんだなと思いました。それと、お年寄りにとっては文字が大きくて漢字が少ないというのもいい。