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そんな私の唯一の逃げ場が本だった。本さえ読んでいれば、成績が悪くても大丈夫だと思っていた。父が編集者だったから、家には腐るほど本があった。片っ端から読んだ。意味がわからなくても読んだ。活字を追っていれば、すべてを忘れることができた。

中学3年になったころ、大学で始まった大学紛争に同調する若者たちが、燦々囂々集まって、新宿駅西口広場で反戦歌や革命歌を歌っていた。フォーク集会である。

私が産まれたとき、両親はともに共産党員だった。その後、2人とも共産党から抜け、当時、父は「ベトナムに平和を!市民連合=べ平連」の運動に参加していた。好むと好まざるとにかかわらず、私は、左翼思想にどっぷり浸かって育ったのだ。

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14歳で新宿にたむろするように

初めて一人で新宿へ行った。西口広場は若者であふれていた。知らない人たちに囲まれて、私は大声で反戦歌や革命歌を歌った。連れて行かれたメーデーや、家に来る父の仲間たちが歌っていたから、どの歌もよく知っていた。「いくつ?」と聞かれ、「14」と答える。みな驚いたような顔をする。自尊心をくすぐられた。

何度か新宿に足を運び、知り合った中学生から、「全国中学生共闘会議」を立ち上げるからと言って誘われた。当然、参加すると答えた。家庭にも学校にも馴染(なじ)めなかった私は、初めて仲間と呼べる人たちと出会えたような気がしていた。

高校受験。私は、公立高校の入学試験に落ちた。補欠だったと嘘をついた。すぐにバレた。母は泣いていた。結局、私はランクが下がる私立高校に入ることになった。入学金が高かったせいで、父と母は「お前のためにいくら金を使ったと思っているんだ」と言って、ことあるごとに私をなじった。情けなかった。

入学したのは、「自由や自主性を重んじる」が謳(うた)い文句の高校。私服通学が許されていた。だが私は、唯々諾々、喜んで私服を着て行く気になれず、中学のときに着ていた制服を着て入学式に出た。どこまでも反抗的なへそ曲がりである。