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 朝日杯の棋譜を調べ、永瀬による藤井への見解を取材で得た私は、「藤井は2月から不調に陥っていた」と書いた。するとある者から「2月は王将戦七番勝負で4連勝のストレート防衛をしているし、(不調は)決めつけだ」という趣旨の批判を受けた。しかし、それこそが結果論だ。王将戦七番勝負では挑戦者の菅井竜也八段の状態が藤井以上に悪かったことは棋譜を見ればよくわかる。棋士の状態を知るには結果ではなく、棋譜を見るべきだ。AIの評価値や棋士の解説の力を借りてでも、とにかく将棋の内容を凝視しなければいけない。AI全盛の現代だからこそ、棋譜を読み解くという根本的な作業に立ち返る必要があるのだ。

伊藤匠 ©文藝春秋

後手番での新手法にも慣れて復調

 ’24年度に入って藤井は名人戦で豊島将之九段に4勝1敗で勝利した。だがこのシリーズ、藤井は第1、2局で苦戦に陥っていた。次の棋聖戦では山崎隆之八段を3連勝で降したものの、続く夏の王位戦七番勝負では渡辺明九段にシリーズの序盤戦で苦戦した。渡辺は敗退後にX(旧ツイッター)で、「第2局を終えたところでは今までの番勝負よりは戦えてる気もしましたが、そこから藤井王位のデキが尻上がりに良くなっていって、結局はいつもと同じ感じのスコアになりました」と綴っている。結果は4勝1敗で防衛したものの、藤井の開幕3連敗でもおかしくない内容だった。だが第3局で奇跡的な終盤力を発揮して渡辺を土俵際でうっちゃってからは、いつもの藤井が戻ってきた。指し手の精度が上がり、藤井らしからぬミスは激減した。

 永瀬九段がリベンジマッチに名乗りを上げた王座戦五番勝負では、’23年の劇的決着が嘘のように藤井が3連勝で防衛を決めた。最終局の逆転劇はドラマチックだったが、全体的に藤井の完勝だった。

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 そもそも最強の藤井がなぜ長期的な不調に陥ったのか。過密日程が要因という声は以前から根強くある。藤井を待ち望む地域は多く、タイトル戦が早期決着して実現しなかった対局地に「祝勝会」と称して顔を出すことが多い。確かに負担だろうがそれは前年にもあったことだ。

 一つ考えられるのは、後手番での指し方を変えたことだ。藤井は以前「対局ごとに作戦は変えない」と語っていた。王道ではあるが相手の言いなりになることに近く、この方法で勝つのは恐ろしく難易度が高い。当然、相手は序盤で藤井の意表を突く指し方を用いるが、「将棋は序盤では決まらない」という藤井の凄味を感じさせるものだった。だが伊藤叡王や永瀬九段といった、AIの使い方が巧みで研究が深い棋士に中盤まで苦戦を強いられることが増えてきた。’23年の王座戦五番勝負はその典型である。それもあって、藤井は’23年の後半ぐらいから相手の意表を突く指し方をするようになった。