(勝たないでくれ……)
伊藤匠は心の中でそう呟いた。
記録係の席に伊藤は座っている。対局を見続け、棋士が指す一手を記録用紙に記していく。これは奨励会員に任された重要な仕事だ。
「彼が勝ちに近づいていくうちに、気持ちが落ち込んで…」
目の前のステージでは、自分と同じ15歳の青年がスポットライトを浴びている。2018年2月17日、第11回朝日杯将棋トーナメント決勝。タイトル獲得経験もある広瀬章人八段と向き合うのは、中学3年生の藤井聡太五段だった。
この日、史上初の中学生による全棋士参加棋戦優勝がかかった一戦は、棋界のみならず大きな注目を集めていた。公開対局場となった有楽町朝日ホールは、584席が観客で埋め尽くされ、ABEMA、ニコニコ動画、将棋連盟モバイルでの中継が入っていた。
伊藤は、この対局の2ヶ月前に棋士養成機関である奨励会で三段昇段を決めた。将棋界でプロになれるのは四段からであり、一部の若手棋戦を除いて伊藤にはまだ一般棋戦への出場資格はなかった。
「最高峰の舞台で記録を務めるのは、勉強になる。でも藤井さんの勝つ姿は見たくない。ただ悔しいという気持ちですね。これ以上、引き離されたくないという。この日も彼が勝ちに近づいていくうちに、気持ちが落ち込んでいきました」
朝日杯は準決勝と決勝が同じ日に行われ、藤井は準決勝で羽生善治竜王(当時)と対戦した。棋界のレジェンドとの対戦は、むしろ決勝以上の注目を集めた。伊藤はこの対局でも記録係を務めている。
数十人のカメラマンが、羽生と藤井の姿を捉えようと壇上に上がっていた。観客席を背景にして二人を撮影するため、記録席にいる伊藤の頭上にカメラが伸ばされる。暴力的なシャッター音が耳を塞いだ。
筆者もその場にいて、他のカメラマンとせめぎ合いながら、羽生と藤井の姿をフレームに捉えていた。今回あらためて当時の写真データを見たが、その中に伊藤の姿を写したものは一枚もなかった。
ライバルが四段昇段を決めた日
伊藤はふと思う。
(どこでこんなに差がついたのだろう?)
小学3年生のとき、全国大会の準決勝で初めて藤井と対戦した。伊藤が勝つと、藤井は悔しさで泣きじゃくり、表彰式でも泣き続けた。結果は伊藤が準優勝、藤井が三位だった。以後、この日まで、二人が盤を挟んだことはない。