将棋界の頂点に君臨する藤井聡太竜王・名人が初めて陥った長期的な不調と、そこからの脱却――。
2024年の将棋界を総括すると、まずそれが思い浮かぶ。’23年10月、藤井は王座戦五番勝負で永瀬拓矢九段を3勝1敗で破って王座を獲得。同時に将棋界の8大タイトルをすべて制覇した。インターネットで情報が行き渡るようになり、技術の差が少なくなった現代で一人勝ちをするのは至難の業だ。だが藤井はタイトル戦で一度も負けることなく、すべての冠位を手中にした。文字通り、歴史的な最強棋士が誕生したのだ。藤井の無敵時代はしばらく続くだろうと誰もが思っていたが、八冠は254日で崩れた。
’24年6月、藤井は叡王戦五番勝負で伊藤匠七段に2勝3敗で敗れ、初めて失冠した。伊藤は藤井と同学年だが3カ月ほど若い。藤井が敗れるなら年下の棋士だろうとは言われていたが、これほど早く訪れるとはあまりにも意外だった。伊藤とはこれが3度目のタイトル戦で、’23年の竜王戦では4連勝、’24年の棋王戦では3勝1持将棋と、2度続けて圧勝していたのだ。1年間でタイトル戦の出場権を3つも獲得した伊藤の成長は著しかったが、藤井はまるで問題にしていなかった。
「伊藤さんがうまくやったわけではない。藤井さんがいつもの藤井さんではなかった」と語るのは、藤井の練習パートナーで知られる永瀬九段だ。藤井が生涯で最も多く指している棋士の言葉は重い。叡王戦の棋譜を見ても藤井の状態が芳しくないのは明らかだった。伊藤はAI(人工知能)を使った序盤研究の深さに定評があるが、この叡王戦ではむしろ藤井が序盤でリードを奪うこともあった。そうなると終盤が桁違いに強い藤井の独壇場となりそうだが、信じられないミスが出て逆転負けを喫したのである。
そもそも永瀬は、「2月くらいから、藤井さんらしくないと思っていた」と述懐する。2月に永瀬は朝日杯将棋オープン戦の決勝で藤井と顔を合わせ、見事に勝利。全棋士参加棋戦で初優勝を果たした。前年の王座戦のリベンジ達成と思われたが、「嬉しかったけど、そこまでではなかった」と語る。「藤井さんと対局すると脳が本当に疲れる」という普段の強烈な手ごたえがなかったからだ。