外国人とサッカーをしてみて、「人類はざっくりと2種類に分類できるのではなかろうか」と感じたことがある。審判を、ルールを尊重しようとする人間と、その裏を掻こうと考える人間である。

 忘れられないのは、若かりし頃、CKでの一場面である。わたしはGKだった。近くにブラジル人の相手FWがいた。つかつかと歩み寄ってきた彼は、わたしのスパイクめがけてツバを吐きかけた。唖然としているうち、ゴールが奪われた。我が師匠でもある日系ブラジル人のご意見番は、言葉を失っている弟子に言った。

「相手のスパイクにツバ吐いちゃいけないってルール、ないでしょ?」

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写真はイメージ ©GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

 ご存じの通り、サッカーという競技においては、相手をつかむこと、倒すこと、蹴ることなどが禁止されている。なぜか。それが卑怯な行いだから。感情をコントロールできないのは紳士らしくないから。オフサイドという行為が反則なのは、相手陣内での待ち伏せが紳士らしくないから、ということで説明がつく。数あるスポーツの中でサッカーのルールがもっとも少ないとされるのも、紳士たるもの、自分で考えればやっていいことか否かはわかるだろ? という英国らしい前提があるからでもある。つまりは、マナー。

 ところがサッカーがドーバー海峡を越えてからは、この競技に独自の解釈を持ち込む人たちが現れた。ルールの抜け穴を探し、審判の目を盗もうとする人たちだ。ラテンの国々ではそうした発想や行為が「マリーシア」「マリッツィア」などと呼ばれ、称賛されるまでになった。

 マラドーナと言えば「神の手」。明らかなハンドで奪ったゴールを、アルゼンチンの人たちはまったく恥じていない。むしろ、よくやった。うまく出し抜いた。世紀の誤審に激怒するイングランド人を、彼らは嘲笑(あざわら)いさえした。

 テクノロジーでそうした誤審をなくそうとするVAR(Video Assistant Referee)の導入は、だから、ルールを、審判を欺こうとする人たちからすると邪魔者以外の何ものでもない。彼らがVARに批判的なのも、まあわからないではない。