マラソンや駅伝中継での「細かすぎる名解説」でおなじみの増田明美さん。初の女子マラソン代表としてロサンゼルス五輪に出場を果たし、そこから華麗なる転身をとげた。その背景には、「箱根駅伝」との出会いがあった。人気解説者が語り尽くす『俺たちの箱根駅伝』の魅力とは。

解説者デビューと「箱根駅伝」

 2024年パリ五輪女子マラソン中継でも「マニアック解説」が人気を博した増田明美は、初めて女子マラソンが実施された1984年ロス五輪に、日本代表として出場した。

 長距離種目で次々と日本記録を更新し、天才ランナーとして期待を集めていたが、結果は途中棄権。「もう日本には帰れない」と感じていたが、大会後に一部から心無いバッシングを浴びたことで、増田は静かに表舞台から消えた。

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「ロス五輪の後、『もう走るのはやめよう』と思って、引きこもっていたんです。しばらくして、『もう一度、走りたい』と思ったときに、『アメリカに行って、自由な気持ちで走っておいでよ』と勧めてくださったのが日本テレビ・箱根駅伝完全生中継の初代プロデューサー坂田信久さんでした」

 増田は、アメリカ・オレゴン州のユージーンという小さな街で、走ることの喜びを取り戻す。そして、1992年1月の大阪国際女子マラソンで現役を引退。アスリートの思いを伝えるスポーツジャーナリストとして活動を始めた。

 翌年、坂田から、ドイツ・シュトゥットガルトの世界陸上競技選手権の解説者のオファーが届く。チャレンジすることを決めた増田は、その準備のために、当時、麹町にあった日本テレビに通った。多いときには週に3度、足を運んだという。

「このとき、世界陸上チームのスタッフルームを訪れて驚きました。過去何年もの陸上の専門誌のバックナンバーがずらりと並び、海外の選手の情報など、膨大な資料が集められていたんです。スタッフは、ここに籠って資料を精読したり、取材に駆けずり回っていました。陸上競技を中継するということは、ここまでの準備をしなければならないんだ、という心構えを学びました」

増田さんのマニアック解説は、膨大な取材があってこそ。

 増田は、女子マラソン代表だった浅利純子選手への取材を重ねた。浅利はこの大会で、日本人女性として初の世界陸上金メダルを獲得。このときの解説で、血液中の疲労物質を測定し、練習メニューを決めるなどの、当時、最先端のスポーツ科学に基づいたトレーニングの模様と、浅利選手のひととなりを伝えて、視聴者を驚かせた。 

 テレビのコメンテーターを務めていた映画監督の大島渚は、「浅利選手の金メダルも素晴らしいが、増田さんの解説も金メダルだ」と絶賛した。