中曽根さんが書いてくれた墓碑銘
実は中曽根さんのおかげで僕の墓はもうできているんです。僕の親父が死んだ時に建てた「渡邉家之墓」が都内の寺にあるのですが、その敷地の隅の方の土地が空いており、2年ほど前に思い立ってそこに僕の墓を建てることにしました。墓碑銘は中曽根さんにお願いしたら、3日で書いて送ってきてくれました。
これがその実物です(「終生一記者を貫く 渡辺恒雄之碑 中曽根康弘」と書かれ、額装された和紙を見せる)。中曽根さんが書いてくれたこの字を、墓石に彫ってもらいました。「終生一記者を貫く」という文言は、僕からお願いした。そういう墓が欲しいと、自分で思っていたからね。中曽根さんが書いてくれたその墓に、僕は入ることになるわけです。
飲み会よりも読書会
1956年に最初に中曽根さんと会った時のことは今も鮮明に覚えています。当時、初代の科学技術庁長官に就任したばかりで、原子力委員会の委員長もしていた正力松太郎さんに「中曽根君に毎日会いたまえ」と言われて、会いに行ったのです。僕は当時ヒラ記者で、政治部長の命で読売新聞の社主でもあった正力さんのところに頻繁に出入りし、いろいろ情報をもらっていました。
正力さんと中曽根さんを結びつけたのは原子力の平和利用でした。正力さんは公職追放中からそれについて考えていて、読売新聞でも原子力の平和利用をテーマに「ついに太陽をとらえた」という連載キャンペーンをやっていた。一方、中曽根さんはもともと野党で、最初は民主党で改進党などを経て、保守合同の時に自民党と合併するまで政務次官も常任委員長も縁がなかった。しかしながら彼は原子力について勉強したんだ。改進党時代にハーバード大学の夏期セミナーに行く途中、アメリカの原子力産業の勃興を見た。そして帰国後、原子力の平和利用について考えるようになった。そこを正力さんが自分の後継者として見込んだんだな。
ただ当初、僕は中曽根さんとは肌が合わないと思っていた。スタンドプレーが多く、「憲法改正の歌」なんか作っていたので、タカ派のイメージがあった。しかし実際に会ってみると、そのイメージは覆された。非常に謙虚で、しかも質素で勉強家だった。
※本記事の全文(約1万字)は「文藝春秋 電子版」でご覧ください(渡辺恒雄「わが友、中曽根康弘・元総理との60年」)。全文では下記の内容をお読みいただけます。
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