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『大勝軒』は町中華だったがつけ麺の人気により……

「特製もりそば」はすぐに評判となり、1961年、独立した山岸が東池袋で『大勝軒』を開業すると、ラーメンと人気を二分するメニューに急成長。当初はカレーライスやカツ丼なども提供する町中華だった同店だが、客の大半がラーメンかつけ麺を注文するため、メニューをこの2種に絞り込まざるを得なかったほどの行列を生む。

 山岸は後年、“ラーメンの神様”と称されるようになった業界のレジェンドだが、中華界への影響という点から見れば、つけ麺の考案者としての功績も大きく評価されるべきだろう。

 麺をスープにつけて食べる画期的な中華の新メニューを、より多くの人に知らしめたのは、つけ麺というわかりやすい名称を引っ提げて1974年に登場した『つけ麺大王』である。矢継ぎ早のチェーン展開をしたこともあって、つけ麺は一躍ブームとなっていく。

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 ただし、『つけ麺大王』は関東ローカルの店舗展開をしていたため、一気に全国的な人気に結び付いたわけではなく、同店の躍進に陰りが見え始めると、短期間で店が減り始め、つけ麺ブームは去ってしまったかに思われた。

独立開店した山岸の弟子たちが活躍を始め、風向きが変わった

 だが、ここからがしぶとい。つけ麺の可能性を見逃さなかった者たちがいたのだ。関東各地の町中華店主たちである。『大勝軒』はもともと町中華店なのだから、客との相性がいい。作業的には麺を締めて冷やす工程が加わるため手がかかるが、新メニューの開発に熱心な店や、客の要望に応えることに前向きな店が見よう見まねで導入。味のレベルにはばらつきがあったものの、徐々につけ麺を扱う店が増えていった。とはいえ、中華丼やタンメンのように町中華の定番に育つのはまだ先だ。

 世間にインパクトを与えたのは、つけ麺のうまさを肌で知る職人たちだった。独立開店した山岸の弟子たちが活躍を始め、独自の味を追求する一部の店主が、『大勝軒』風ではないつけ麺を考案し、評判を取っていく。そして、それらの店で修業した面々が自分の店を持ち、なおも工夫を重ねる。さらに、つけ麺の専門店が生まれ、その成功に刺激されて新たな店がまたできる、という好循環が生まれていった。