――大正解でしたね。高校2年、3年と甲子園に出場、3年の夏はベスト8に。卒業後は早稲田大学に進学しました。

和田 ただ、甲子園はミーハーな気分にもなりました(笑)。僕らの世代、いわゆる“松坂世代”は(松坂)大輔を筆頭に新垣渚、杉内俊哉、村田修一など綺羅星がひしめいていて、彼らと同じ空間にいるだけでワクワクしていました。だって、その頃僕は120km台の投手だったのに、大輔や渚は150kmを記録していましたからね。

 

「お前、反町じゃねえだろ!」って(笑)。

――この時に甲子園に出場した選手に聞いたら、和田さんはイケメン投手として有名だったとか。

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和田 3回戦で帝京高校を破った翌日、スポーツ新聞が取り上げてくれたんですよね。そのときに、「反町隆史似の投手」と書かれたんです(笑)。朝、宿泊先のホテルで寝ていると同級生から内線電話があり「すぐテレビつけろ」って。「お前が出ている。新聞一面らしいぞ」と。そして続けざまに「お前、反町じゃねえだろ!」って(笑)。なんのことか分からずテレビをつけると、スポーツ新聞が大きく映し出され、反町さんと並べられていました(笑)。

――たしかに、今も似ているかも。

和田 やめてください! そんなことを言ったら反町さんに大変失礼ですよ。高校時代は寮生活でおまけに野球漬けだったので、モテるとかモテないとか、そんなワードは考えたことさえありませんでしたね。でも、卒業する前にそれまで学校に届いた手紙をまとめて渡されて、その量を見たとき「オレ、結構モテてんじゃん」とは思いました(笑)。

甲子園で新発田農業高校(新潟)と対戦し、5安打2失点で完投勝ちしたときの和田毅さん(1998年撮影) ©時事通信社

大学時代には通算476奪三振の記録を立てた「ドクターK」

――大学時代に一気にブレイク。通算476奪三振は東京六大学野球連盟最多記録で、当時江川卓さんが持っていた443を大幅に更新しました。凄い数字です。

和田 フォームを全面的に変えたんです。大学1年の夏までのスピードは129kmぐらい。でも、同期で慶応の長田秀一郎、立教の多田野数人、上重聡、法政の土居龍太郎などは140kmオーバーを投げていたので、彼らのレベルに追いつきたいと思った。松坂大輔や石井一久さんのフォームを研究すると、利き手以外の腕を胸に引き寄せるようにしていた。加えて骨盤の使い方を研究したら、一気に144kmを記録し、1か月半で15kmもアップしました。

 

 それを実践したのが2年の秋の立教戦でした。他の六大学にも「和田は140km以上を出したらしい」と噂は広まっていたみたいですが、「さすがにそこまで一気にスピードアップはしないだろ」という意見が大半。立教戦で先輩投手が打ち込まれ、僕が敗戦処理のような形でマウンドに上がると、「ほら出てきた」「いけるぞ、速くなっているわけねぇだろ」と冷やかすような視線を感じました。で、初球でバーンと投げて、電光掲示板に「140」って表示されると、立教のベンチがシーンとなっていて(笑)。