――三振を量産することから「ドクターK」と呼ばれるようになったのはその頃からですか。
和田 そうですね。2年の秋のリーグ戦が終わるころから、プロに行けるかもと思うようになりました。それまでは高校の教師になって野球部の監督になることを考えていたので、教職課程は全部履修していたんです。まさか自分がプロに行けるとは考えていなかったので。
ただ、プロ入りを意識し始めてからは、1年間フルに投げて、新人王を取れるレベルまで自分を引き上げたいと思いながらマウンドに上がっていました。476奪三振はその結果論だったと思っています。
――奪三振記録はいまだ破られていません。
和田 今後も破られないと思いますね。今の大学野球での戦い方を見ても先発完投型の投手はそんなにいないし、試合数を考えても難しいと思う。当時とは環境も変わっていて、そのくらいのピッチャーはすぐにプロにいっちゃうと思いますし。
城島健司さんからプロとしての姿勢を叩き込まれた
――ダイエーホークスに入団し、計画通り、1年目から大活躍で新人王にも輝きました。
和田 監督や指導者、先輩陣に恵まれましたね。監督は王さんだったし、小久保裕紀さん、松中信彦さん、井口資仁さんなどの先輩方にはいろいろ教えていただきました。特に捕手の城島健司さんと出会えたのは大きかった。城島さんのサインから配球などを学んだこともさることながら、プロとしての姿勢も叩き込まれました。
2年目のある試合で、初回からボコボコに打たれ 「今日はしょうがない、次頑張ろう」という姿勢で投げていたところ、城島さんがマウンドに来て「お前、今適当に投げているだろう」って。「はい」とは言えないから「いえ、そんなことありません」と言ったけど、「受けていたら分かる。今、球場に来ているファンはもしかしたら一生に1度のことかもしれないし、今年最初で最後の観戦かもしれない。そういう人たちにそんな姿をさらしていいのか」と怒られた。
たしかに、自分は次の登板があるけど、一生に一度限りの観戦のファンがいるかもしれない。こんな姿じゃダメだな、って。城島さんには「次にそんな姿を見せたらマジでぶっ倒すからな」と言われたけど、真剣に怒られたのはこの1回だけ。それ以来、どんなに調子が悪くても、滅多打ちにされても、全力で投球する姿勢は生涯崩すことがなかった。今はそれが誇りかな。
撮影=杉山拓也
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