階段の上り下りさえつらくなり、下痢と血便の症状が…
症状はますます悪くなっている。マリーナは知り合いの医師に電話した。以前、在英ロシア大使館で勤務していた医師で、普段から息子の体調について相談に乗ってもらっていた。
医師は手術の予定があり、すぐには診察できなかった。リトビネンコはアドバイスに従い、薬を飲んで水分を補った。胃の中を空にしたはずなのに吐き気は治まらない。これまでに経験のない疲労感が襲ってくる。
「救急車を呼んでほしい」
彼がそう言ったのは3日午前3時ごろだ。マリーナは驚いた。
「サーシャは普段タフで、医者の診察をほとんど受けていません。その彼が救急車を求めたのですから、よほどつらいのだろうと思ったんです」
救急車は5分ほどで到着した。隊員はインフルエンザ・ウイルスに感染している可能性が高いと判断し、家で休むように言った。病院に搬送した場合、感染を拡大させるリスクがあると説明し、救急車はそのまま引き返している。
マリーナは夫が次第に神経質になっていったのを覚えている。
「アンナ(ポリトコフスカヤ)の暗殺もあって、緊張したのだと思います。二人でいろんな可能性について話をしました」
階段の上り下りさえつらくなった。下痢と血便の症状が出た。呼吸が苦しく、「心臓が止まりそうだ」と訴えた。胃の痛みも激しい。食中毒やインフルエンザとは思えなかった。
マリーナが再度、医師に電話すると、すぐにやってきてくれた。診察の結果、感染症の疑いがあると言われた。それでも衰弱があまりにも激しいため、病院で診てもらうべきだと判断された。救急車が来たのは午後4時ごろである。
心配したザカエフが家から出てきた。友人の変わりように驚き、信じられないといった表情をした。
リトビネンコはそのまま、ロンドン北部のバーネット・アンド・チェイス・ファーム病院に運ばれ、救急外来(A&E)で検査を受けた。マリーナは近くの駅まで息子を迎えにいった後、病院に向かった。夫はエックス線検査を受ける際、ロシア正教会の十字架のネックレスを外していた。どんなときでも身につけていた十字架を外している姿が、彼女には強く印象に残った。