『TRICK』山田奈緒子との共通点
原作に描かれた主人公の復讐心にへんに手心を加えず、ありのままに人物の欲望を描ききり、原作者を満足させたという堤幸彦監督はもともと、『TRICK』『SPEC』『truth~姦しき弔いの果て~』などで性格の悪い人物(とくに女性)を描いてきたことで定評がある。今回の加代子は、『TRICK』の山田奈緒子(仲間由紀恵)に近いと感じる観客もいるようだ。
奈緒子は貧乏でいじましく生きているが見栄っ張りで負けず嫌いでこわいもの知らずで、えらい人にも忖度なくものを言うキャラクターだった。『私にふさわしいホテル』の加代子もいじましいし、自分に正直に生きている。奈緒子も加代子もこんな人はいないというのではなく、人間誰もがそういうところをもっていると思わせるキャラクターだ。自分がうまくいかないことを他人のせいにしたり、他人の不幸を喜んだりするところは誰だって大なり小なりある。それを隠すのがせめてもの配慮とされるが、それを隠さないのが奈緒子であり加代子だ。
のんは『私にふさわしいホテル』の撮影時、加代子が愛する山の上ホテルの客室の、ヴィンテージ感あふれる机にシャンパンを撒き散らしたことを、「やってはいけないことを公然と、思う存分やれたことが本当に楽しい体験でした」とパンフレットで語っている。さすが「のん」だけあって「non」。人間の本質を端的にわかって演じているのん。なんて聡明な俳優なのであろうか。
「不器用な俳優」から変化したきっかけは
振り返れば、のんが能年玲奈であった頃、聡明というよりは不器用な俳優というイメージを持たれていたと思う。猫背で、台詞回しはたどたどしく、それが素朴で『あまちゃん』でも好意的に見られた。『あまちゃん』のアキは未成熟で、じょじょに自分のなかに眠る可能性に気づいていく役だったから、のんの醸すたどたどしさがピッタリだったといえるだろう。『あまちゃん』(13年)の頃から彼女が監督した『Ribbon』(22年)の頃まで、わりと長い年月、のんは取材時、思っていることをうまく言語化できず、もどかしそうにしていた記憶が筆者にはある。
それが変わったなあ! と思ったのは『さかなのこ』(22年)や『天間荘の三姉妹』(22年)の頃だった。とくに『天間荘の三姉妹』では饒舌で驚くほどだった。『あまちゃん』のアキを意識して描かれたヒロインを「“ぽい!”と思いました(笑)」とけろりと言った。さらに、一身に受難を引き受け、それでも光に向かっていくような、いわゆるヒロイズムを感じる役を自分は期待されていると自覚し、そういう役が好きだし、期待に応えたいと語る口調に迷いはなかった。その変化をのんは、『Ribbon』で監督をやったとき、自分の思いを他者に伝える必要が生じたからだとパンフレットの筆者の取材で答えている。のんとして、俳優以外の役割が増えたことが彼女を変えたのであろう。
さて、俳優としてののんのスキルはどうか。堤は『私にふさわしいホテル』のパンフレットで「何をやっても真面目に面白いというか、コメディアンがコメディをするのではなく、役として面白いことを一生懸命される方。面白くないことでも彼女が真面目に取り組むと面白く見えてしまう、そんな天賦の才能がある」と評している。
堤は加代子の箸の持ち方を独特にしたり、堤考案の文豪コールをやらせたり、目を1.5倍に開けてとリクエストしたり、独特の堤演出をちょいちょい付け加えた。加代子の大学時代の先輩・遠藤を演じた田中圭は、長台詞の場面で、急に堤が「セリフを一気にまくしたててほしい」と言い、のんがそれに見事に応じたことを讃えていた。基本コメディなのだが、この場面だけ加代子と遠藤の表情が違う。ピリっとしているのだ。
監督に要求されたことを徹底的にやりきろうとするのんの真摯さによって、加代子がどれだけ東十条に意地悪を仕掛けても、遠藤を厳しく糾弾しても、不快感が軽減されるのだ。高を括っていない、加代子の言動は映画のなかで語られる「イノセンス」そのものに見える。映画では「イノセンス」という概念を幾分、冷笑しているようにも見える。それは、遠藤が彼の幼い娘たちにサンタクロースが存在するという夢を与え続ける行為に象徴される。それは一般的に解釈される「イノセンス」という少女の夢のような、いたいけなものというイメージそのものだ。でもそれは真のイノセンスではなく、柚木の原作では「イノセンス」は「世間と闘って、一人一人が必死に守り抜くべきものなのだ」とある。柚木の描く「イノセンス」をのんは無心に表現していた。