「反国家勢力」とは何か?
こうした心痛、苦境を乗り越えるために、戒厳令という腕力に頼ったのは明らかに政治力喪失である。文在寅(ムンジェイン)政権後、保守層の待望論に押されて、急に政界に飛び込んだアマチュア政治家の限界だったか。対日外交は「一途な決断」で成功したが内政ではうまくいかなかった。
尹大統領は日ごろ「反国家勢力」の存在を強調してきた。戒厳令談話の中でも「従北反国家勢力」と言っている。野党勢力は「北朝鮮につながり(従北)、韓国の自由民主主義体制を破壊しようとする反国家勢力」というわけだ。
いささか大げさな表現で彼が好んだ右翼強硬派の主張そのままだ。こうしたレトロ(復古的)な「北脅威論」に現在の韓国世論の大勢が共感する雰囲気はないが、ただ彼がそう思い込む理由はなくもない。
たとえば「共に民主党」をはじめ野党勢力の核心部分に存在し、今回も弾劾集会デモの先頭に立った韓国最大の全国的労働組合組織「民主労総」は幹部らが北朝鮮のためのスパイ活動で検挙されている。あるいは歴史上の人物で、共産主義者の大物の胸像が、抗日独立運動の経歴を理由にいつの間にか陸軍士官学校の校庭に建てられていたり。
歴史でいえば、歴史教科書など学校教育や博物館展示、メディア報道などは近年、左翼偏向が目立つ。北朝鮮の侵略(朝鮮戦争)から国を守った初代大統領李承晩(イスンマン)や、高度経済成長を実現し国力で北を凌駕した朴正熙、オリンピック開催で東西冷戦終結に寄与した全斗煥、盧泰愚など保守政権の業績は無視、軽視され、左派勢力などによる反政府・反体制運動ばかりが歴史を飾っている。
ノーベル文学賞のハン・ガン氏の代表作に『別れを告げない』がある。1948年、韓国南端で起きた共産主義勢力の扇動による反政府暴動「済州島四・三事件」を舞台に、鎮圧過程で多くが犠牲になった島民の話だ。現在の韓国社会では、小説と同じく事件のきっかけは無視ないし軽視され、犠牲者中心の歴史観が大勢になっている。
歴史認識の左傾化は90年代以降の民主化で始まった。左翼革新系の金大中・盧武鉉(ノムヒョン)政権(1998-2008年)の後、保守系の李明博(イミョンバク)政権が誕生したが、経済人出身の彼はイデオロギーには無関心で、次の朴槿恵(パククネ)政権は左傾化阻止に取り組んだが弾劾で途中退陣を余儀なくされた。朴槿恵の挫折後、次の文在寅政権下で左翼系は大復活し、左翼全盛時代となっていたのだ。
尹大統領からすれば、こうした歴史理解の背後には「反国家勢力」の陰謀があり、この際、戒厳令でもって一掃したかったのだろう。これは彼にとって「歴史内戦」になるが、レトロな戒厳令発想では歴史認識は変えられない。先に「ノーベル文学賞に負けた」と書いたのはその意味である。
※本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(「尹錫悦大統領の自爆で日韓どうなる」)。全文では、戒厳令当日の所感、前回の戒厳令への評価、同時期に話題となったハン・ガンのノーベル文学賞受賞、「韓国のトランプ」と呼ばれる人物の実態などについて語られています。
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