お邪魔虫でしかないが、記録することならできる
50年以上、地震も戦争も知らなかったこの関西で、よりによって平和な神戸が、私が遊んだ町が燃え尽きるさまは、しばし恐怖を忘れさせてくれた。
涙は現場を去ってから流せばいい。被災地ではカメラマンはお邪魔虫でしかない。しかし、記録することならできる。それが近い将来必ずやってくる災害に備える一助になるかもしれない。今はこの目の前の地獄絵図を撮ることに専念することだけが我らの使命である。それでも止まらぬ涙は立ち上がる黒煙と煤塵のせいだけではなかった。震災関連死や行方不明者も含め、犠牲者6400人以上。きっかけは天災だが、この犠牲者数は人災である。起こった時間帯が幸いしたのか、人口150万人以上の街々でこの数字は大きいのか小さいのか。私も滞在した、新ユーゴスラビア(当時)でNATO軍の2カ月に及ぶ空爆で出た民間人の死者が2000人である。それが、1日の地震でこの数字である。災害派遣のための自衛隊出動をためらった当時の村山富市首相が責任を問われることもなかった。
電話も通じず、闇に包まれた明石の実家に帰省
明石の実家にたどり着いたのは日付が18日に替わるころであった。電話も通じず、電気もガスも途絶え、闇に包まれた我が家に突然帰省してきた我が息子に父は恐る恐るドアを開けようとしたものの、震災のため家が傾いたのか、玄関を開けるのに、てこずった。
「母さんはどうした?」
いっしょにいるのがこの時偶然上京していた母でなく、大倉カメラマンと分り、父が震災後初めて人間に対し発した言葉であった。その時まで自ら現場に駆けつけることに専念していたので、母が杉並の拙宅「つつみ荘」に掃除に来たあと、横浜の叔母の家を訪れていたことをすっかり忘れていた。結局母が明石に帰れたのは2週間後新幹線も高速道路も崩壊した阪神間を避け、羽田から岡山まで飛行機で、それからバスで岡山駅に、そこからは在来線で明石まで帰ってきてからは、不安丸出しの母親を残し、1人帰省した息子はおおいになじられるはめとなったが、6400人の犠牲者とその遺族のことを考えたら母の不安なんぞは屁でもない。
機材を置くなり、小学生のころ同じソフトボールチームにいた同年輩のご近所さんを尋ね歩き、拝み倒してバイクを貸していただく。すでに渋滞が激しい被災地で4輪車は足手まといのうえ燃料調達の不安もある。自転車で明石から神戸まではちと時間もかかる。
真っ暗な我が家やが、つかの間の暖がとれ、翌朝、夜明け前には出発した。吹き曝しの風はまさにほほを切る冷たさである。この寒空の中焼け出され、不安な一夜を過ごした幾万の神戸市民の心身が案じられる。