震災発生後24時間後には再び長田にたどり着いた。明るくなるにつれ、見たくもない光景が広がり、この町が神戸市長田区だと理解するのにしばらく時間を要した。

 瓦礫と灰塵の山と化した、ここ長田にも夜明けとともに音もなく、自衛隊員や警察官が現れ、生き残った住民もあちこちで、灰塵の山を掻き分けてはいまだ行方の知れぬ家族、友人の姿を探し求めていた。カチャリ、カチャリと大海で針を捜すごとく瓦礫を掻き分ける音だけが響くが、やがてそのほとんどは真っ黒に炭化したり、小さな骨という変わり果てた姿で発見され、そのたびに嗚咽が漏れる。

©︎宮嶋茂樹

消え去ったアップライトピアノ

 しかしそんな光景が広がるなか、ひときわ目を引いたのが誰が置いたのかまっさらなアップライトピアノであった。それにしてもシュールである。このまわりでまともに立っている家なんかほとんどないというのに、よっぽど大切な思い出があるのであろうか、それこそ火事場のなんとかで、運び出したのであろうか。しかしもっと不思議だったのは、この町内を一回りして戻ってくると、このピアノは煙のように消えてしまっていたのである。

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©︎宮嶋茂樹

 このピアノに関しては後日談がある。日曜が締め切りだった週刊文春グラビア班だが、そのせいで1週間丸々かけて震災取材をつづけ、翌週には全24ページを使い震災の特集を組んだのやが、そこに掲載されたこのピアノの写真を見た同業者が私に疑念を抱いたのである。「なぜあれほどカメラマンが多くいた現場で宮嶋しかあのピアノを見てないのか」と。「宮嶋のことやから、撮ったあと他に撮られないよう火をつけたんちゃうか?」と。疑惑を持たれたまま10年後、震災10周年をくぎりに、故郷明石で写真展を開催したさい、この作品も展示されたが、主催していただいた地元明石のケーブルテレビがこのピアノの持ち主を捜し出してくれたのである。

 そして会場でこの作品を直接贈呈させていただくことができたのである。ピアノが消え去った理由もこの時判明した。持ち主の方にとっても大切なピアノは燃えさかる家から命がけで持ち出したものの、そのまま避難所まで運びこむわけにもいかず、私が撮ったあと「泣く泣く自らの手でばらして処分」してしまったという。そしてこの作品だけがこのピアノとともに過ごした良き思い出を残してくれる、と額装されたこの作品を大切なもののように受け取ってくださった。写真家冥利に尽きる。