取材基地となった我が家

 それからも神戸や淡路で取材を続け、倒壊を免れた明石の実家はインフラが復旧するにつれ(ホテルのある)大阪よりはるかに近いことから、次から次に文春記者らがやってきては取材基地と化した。地元川崎重工明石工場で定年を迎えていた父は昼間は姫路まで買出しにでかけては、夜帰ってきた記者らに食事まで提供した。

©︎宮嶋茂樹

 私はと言えば実家を離れ、臨時ヘリポートと自衛隊の臨時宿営地となっていた、子供のころ父母に手を引かれていった王子動物園のゴリラの檻のまえで、ゴリラが投げつける糞に怯えながら野営をつづけた。

©︎宮嶋茂樹

 そしてポートアイランド等、震災瓦礫臨時置き場が近かった神戸は復興が進み、2年後には週刊文春グラビア24ページぶち抜いて「祝・復興 神戸美女図鑑」と銘打った企画が掲載された。そこには2年前の悲しみを乗り越えた看護婦(当時)や女性警察官やミス神戸などに混じって、1月の誰もいない須磨海岸で2人のトップレス姿の風俗嬢も登場した。時代柄である。その美女たちもすでに60歳近くのはずである。

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あれから30年

 あの時闇の中我が家を守っていたものの、神戸まで在来線が開通するやビデオカメラ持参して長田に日参した父も、1人帰った息子を叱った母もすでにこの世にいない。30年とはそれほどの時間である。

©︎宮嶋茂樹

 あの30年前の震災で日本人は何を学んだのか、当時自治体からの要請がないと出動できなかった自衛隊はそれ以降部隊の自主判断で出動できるようになり、事実昨年元日の能登震災発生直後には地元金沢駐屯地始め、全国の陸海空自衛隊、警察、消防、海上保安庁がただちに駆けつけ、人命救助や復旧にあたっている。

©︎宮嶋茂樹

 また30年前は米軍から人員や物資輸送の洋上基地や病院船として空母の派遣を打診されながら、前例がないと村山富市首相がためらったり、「核兵器の有無を調べないと神戸入港を認めない」と神戸市の条例をたてに断わった港湾組合などの教訓から東日本大震災直後には「TOMODACHI作戦」が直ちに発動され、アメリカ陸海空軍、海兵隊から原子力空母まで被災地に派遣され、人命救助に復旧、復興に貢献したのもご存じのとおりである。

 「革新」を名乗り、自衛隊との防災訓練をないがしろにして胸を張っていた神戸市はじめほとんどの自治体が自衛隊主体となった共同訓練に積極的となり、その成果は大いに役立っていることと信じたい。

撮影 宮嶋茂樹

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