一方で、位が上がるということもありました。『吉原大雑書』(延宝3年<1675>)には、よしおかという遊女(角町庄右衛門抱え)が、去年までは散茶女郎だったのに、思いがけず格子女郎に「とんぼがえり」したとあります。とんぼがえりということは、もともと格子女郎だったのが、位を落とされ散茶女郎になり、また格子女郎に戻ったという意味でしょう。よほど人気がでたんでしょうか。
高級遊女になっても、その地位に居続けることは難しかった
ただ、こうした位上がりは、必ずしもおめでたい事柄ではなかったようです。というのも、同書には続いて「散茶から格子に上がれば、最下位の端女郎に降りることもたやすい」とあります。どういう理屈なのかよくわかりませんが、一度位がかわると身分は変わりやすくなったのかもしれません。いずれにせよ、たとえ高級遊女といわれる位についたとしても、その地位に居続けることは難しかったことがわかります。それでは、遊女になるかならないか、いずれの位につくか等の判断は、誰によってなされたのでしょうか。
ひとつ、興味深い例として、亡くなった遊女の「ついせん」(追善供養)で、その妹女郎を最高位の太夫に据えたという遊女の話が『吉原人たばね』(延宝8年<1680>)にあります。それによれば、三浦屋の唐崎(からさき)という太夫が亡くなったあと、その同僚であった小紫(こむらさき)という太夫が、唐崎の形見である「かせん」を太夫に引き立て、薄雲(うすぐも)という名前でデビューさせたとのこと。
三浦屋は吉原のなかでも数多の名妓を輩出した有名な店ですが、なかでも「薄雲」は三代にわたって襲名された名高い太夫名です。商売敵の妹女郎を太夫に引き立てるのみならず、薄雲を名乗らせたことに、『吉原人たばね』の作者今宮烏(いまみやがらす)はいたく感激しています。
これは姉女郎が亡くなり、その妹女郎を他の遊女が推薦したというケースですが、評判記にはしばしば新米の遊女について「○○(姉女郎の名前)の引き立てなり」といった文言がみられます。姉女郎に目をかけてもらえるかどうかは、妹女郎の出世に大きくかかわっていたんでしょう。