姉女郎にこき使われる16~18歳の「新造」の辛さ
『吉原つれづれ草』(宝永6年<1709>頃)には、新造の時の苦労について、「腹を立てたくなるようなことが沢山あって、物悲しく、心がひねくれてしまうことも多い」とあります。どうにも心が塞いでしまうような出来事が、日々あったのでしょう。さらに、「お目付役の遣手をお師匠様のように怖がって、姉女郎の思いのままに動き、腰元(下女)のようにこき使われるのは、禿の時とかわらない」ともあり、禿から新造にあがっても、その辛さは続いたようです。
禿が姉女郎の道中にくっついて歩く姿はよく描かれていますが、ほかには、料理や食器を運んだり、手紙を客に届けたりといった雑用もこなしました。くわえて、字の手習いや、三味線などの稽古も、遊女になるためには欠かせません。姉女郎に付き従い夜遅くまでお座敷にでることもあったでしょう。挿絵にみえる禿のなかにはほとんど赤ん坊のような子もいますから、年下の子守もしていたかもしれません。遊びたい盛りの幼い子どもには、さぞ忙しい毎日だったのではないでしょうか。
新造は太夫の10分の1の値段で客をとらされることもあった
新造になってもそうした雑用はなくならないばかりか、客をとる、という新たな仕事も加わりました。先に、新造が遊女になるのは16〜18歳くらいと説明しましたが、実は、それ以前から、姉女郎の許しを得て、客をとることは間々ありました。花代は細見などに書かれないことが多いですが、おおよそ2朱くらいだったといいます。江戸中期頃、太夫を呼ぶだけで、今の相場に換算して10万円ほどかかるとすれば、新造は1万円未満で済むのです。
そんなふうに安価だからでしょうか、新造にはあまりいい客がつかなかったといいます。『吉原つれづれ草』いわく、新造の客は、姉女郎の名代(みょうだい)のほかはもっぱら「おやぢ」「座頭(剃髪(ていはつ)した盲人)」「太鼓持(たいこもち)」であり、新造はこれらの人に身をまかせることを恥じ、他人を羨んだとか。新造のなかには姉女郎のお客に惚れ込んでしまうようなひともいたようですが、それは普段の相手によほど「ムリ!」と思う客が多かったからなのかもしれません。
成城大学非常勤講師ほか
東京都生まれ。成城大学非常勤講師、徳川林政史研究所非常勤研究員ほか。成城大学大学院文学研究科修了、博士(文学)。著書に『近世の遊廓と客』がある。