大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)で再現された江戸時代の吉原と遊女たち。「べらぼう」より遡る時期の吉原遊廓について研究している髙木まどかさんは「吉原に売られた少女たちは、13歳ぐらいで遊女見習いの『新造』となったが、水揚げ前の見習いでありながら、時に太夫の10分の1ぐらいの値段で客を取らされることもあった」という──。
※本稿は、髙木まどか『吉原遊廓 遊女と客の人間模様』(新潮新書)の一部を再編集したものです。
13歳ぐらいまでは「禿」、水揚げまで「新造」として働いた少女たち
女衒を介して吉原に入った娘たちは、客をとれるほどの年齢であればいきなり遊女として働くこともありました。まだその年齢に満たなければ、まずは見習いとして自分の面倒をみてくれる姉女郎に付き従い、徐々に吉原の作法を覚えていきます。
花魁道中を描いた絵には、たいてい遊女の後ろに対になって歩く少女たちがいますが、それがその見習い、「禿(かぶろ)」と「新造(しんぞう)」です。禿はたいてい7、8歳から12、13歳くらいで、やがて「新造出し」というお披露目を経て新造となります。さらに新造は16〜18歳くらいにはじめて客と新枕(にいまくら)を交わす「水揚げ」を経て、正式に遊女となりました(目安の年齢は時代によって違いがあります)。
「遊女になる」というのは、太夫・格子女郎・散茶女郎など、種々ある遊女の位のいずれかにつくことです。しかし、新造のなかには遊女になるルートからはずれて、下女や遊女のお目付役となるひともいました。
太夫・格子女郎・散茶女郎。遊女の地位が変動することもあった
いずれかの位についたとしても、それで「安泰」とはいきません。遊女の位はかなり流動的なもので、位を下げられて名前をかえるのはもちろん、お店をかえ、別の遊女のように勤めることも間々ありました。
『吉原失墜』(延宝2年<1674>)には、いたましいことに、名を馳せた格子女郎でさえ、最下位の端(はし)女郎に降りることは珍しくなかったと書かれています。どうして位が落とされるのか。それはやはり、人気が落ちるというのが一番の理由のようです。妙な評判がたってしまい客が離れたとか、病でつとめがままならないとか、年齢を重ねたという理由もあったでしょう。