安価な散茶女郎が人気の頃は、逸材でもランクダウンすることも

もちろん、姉女郎の独断によって位が決定する訳でなく、遊女を抱えるお店の楼主(亭主)や女将の意向も重要でした。『吉原丸鑑』という評判記には、しがさきという散茶女郎について、「本当は太夫や格子女郎でもおかしくないのに、そうでないのは、亭主が店の繁盛を優先させたからだろう」と書かれています。

『吉原丸鑑』が書かれた享保5年(1720)の頃は、高級遊女を買えるような客が減ってきて、比較的安価な散茶が人気の時代です。たとえ高級遊女になり得る逸材であろうと、あえて下の位につかせて客を沢山とらせるという、楼主の経営上の判断があったことがうかがえます。くわえて、高級遊女を呼んで遊ぶ店である揚屋側の意向が、遊女の位を左右する場合もありました。

遊女の先輩後輩の間に、姉妹のような思いやりが生じたことも

妹女郎も、ひとたび位につけば、姉女郎の商売敵です。そうなると、あまりいい位につかせたがらなかったんじゃないかと想像してしまいますが、なかには「格子女郎なのに新造から太夫を出した」という、自分より妹女郎を出世させた姉女郎もいたようです。

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近代の遊女屋では家族を模した経営方針――すなわち、楼主夫婦を親として、遊女を娘たちとみなすようなやり方がとられていたことが知られていますが、江戸時代の吉原でもそうした形がとられていたのかどうかは、はっきりしません。ただ、こうした例をみるかぎり、少なくとも擬似的な姉妹関係は成り立っていて、姉が妹を心配するように、妹女郎の出世を気遣っていた様子が目に浮かびます。

とはいえ、破天荒(はてんこう)な姉女郎と、それに困るおとなしい妹女郎などという、性格のあわない組み合わせも多くあったでしょう。実際、姉女郎に付き従って作法を習う新造の期間は、妹女郎にとってかなりシンドイところがあったようです。