しかし大人になってみるとよくわかるのだが、実は、感情は消えない。案外それは残る。他人の感情も、自分の感情も、忘れたと思ったら案外残っているものだ。
誰かにないがしろにされたこと。誰かに搾取されたこと。誰かに傷つけられたこと。人間はずっと覚えているし執着する。感情はなかったことにはならない。現実で痛い目を見てそれを知るたび、私は山岸作品を読み返す。そして「ああ、ずっと前に山岸凉子先生が教えてくれていたじゃないか」と苦笑するのだ。
普通に生きている人間が転げ落ちてくる
山岸作品は手を替え品を替え、「想いに似たもの」を描く。たとえばそれは少女を手にかけ続けようとする人形である(「わたしの人形は良い人形」)。あるいは突然空襲にあってしまった人々の聴こえない叫び(「千引きの石」)。あるいは亡くなってしまったことを自覚できない人の言葉(「化野の…」)。そして自分を律そうとせずにただ受け身で生きている人間にいつのまにか付け入って搾取してしまう人魚たち(「八百比丘尼」)。本書に収録されたどの作品においても、想い――普段の生活でどこかなかったことにしたくなる、見て見ぬふりをしたくなる、言葉にならない情念が、この世ならぬものの形をとって私たちの目に触れている。
人形も、幽霊も、人魚も、どれも私たちの日常にふと入り込んだ亀裂のようなものだ(ちなみにこの亀裂という比喩は『日出処の天子』を読んだ方はどの場面から来たものかわかっていただけるように思う。あれこそ強い想いが形になった最たる描写だと思うのだ)。読者は一度山岸作品に触れると、世界にたしかに存在する「亀裂」に気づかざるを得ない。私たちの日常はこんなにも、誰かの感情を抑圧して成り立っているのか、と。
そして恐ろしいことに、その忘れられた情念は、亀裂の底でおとなしくしているだけではない。本書に描かれている通り、時として、亀裂の割れ目の底から出てくるのだ。その時を彼らは待っている。今か今かと、普通に生きている人間が転げ落ちてくるのを、待っているのだ。