山岸作品が「幽霊」の正体を教えてくれた
昔、「どうして物語に出てくる幽霊は、人間を呪い、そして死者の世界に連れて行こうとするのだろう?」と不思議に思ったことがある。幽霊は幽霊、人間は人間、違う世界に生きているということでいいじゃないか、と幼心にホラー漫画を読んで考えたのだ。しかし十代も半ばを過ぎ、母が本棚に並べていた山岸作品を読んではじめて、その答えを知った。幽霊とは、人間が忘れようとしている(だが実は忘れられていない)情念たちが、ふと人間の目に見える形をとったものなのである。山岸作品を読むとそれがよくわかる。抑圧した感情は、「忘れるな」と叫ぶ。「なかったことになんてさせない」と。だから幽霊は人間を自分たちの世界に連れて行こうとする。自分だけが忘れられるなんて、そんなことはさせない、と彼らは叫んでいるのだ。
無念、という日本語がある。くやしくてどうにもならないという感情だ。山岸作品を読むと、幽霊とは結局「無念」が姿を変えたものなのだとよくわかる。形にならなかった、情念。突然亡くなってしまったり、戦争でいきなり傷つけられてしまったりすると、自分の生き延びたかった世界にはもういられないのに、それでも念だけが残り、形には残らない。体は消える。しかし念は消えない。だから幽霊の体がうまれる。
そこには理屈や因果は関係がない。「八百比丘尼」の人魚にとって、ふらふらついてくる人間を、たぶらかして栄養とすることに理由なんてない。誰でもいいのだ。誰かでなくてはいけない理屈なんてない。「化野の…」や「千引きの石」に登場する、この世にいない人々の魂もまた、きっと因果を超えている。科学と資本主義が浸透しきって、理屈と理論に覆われた現代社会であっても、どうしようもないのは感情なのだ。人間の感情とは、現代の最大の隘路なのかもしれない。