こんな恐ろしい話、ほかにない

 そして本書に収録された「わたしの人形は良い人形」。こんなに恐ろしい話、ほかにない。なぜこの物語が恐ろしいのか。それはこの話が、どうしようもないからだ。――あるひとりの少女が、不憫な事故で亡くなった。そして人形を副葬品として棺に入れなかった。そんなの、どうしようもない、ありふれた出来事だ。しかしどうしようもないからこそ、想いはどこにも行き場がないまま残る。だから道連れにする少女を、無念の塊である魂は探し続ける。

 彼女たちの魂は、「ただの“思い” 執着心でしかない」と評される。そうなのだ。執着が生まれてしまった因果については、どうしようもなかったのだ。だから怖い。対策できない。対策してもどうにもならないことがこの世にはあるのだと思い知らされる。

 

世界の亀裂の底へ落ちていかないように

 きっとこの先も、人間はどうしようもなく、無念な魂を生み出し続ける。社会が発達しても、人間が賢くなっても、変わらない。そのたび、あらゆる無念に、私たちは祈りをささげるほかない。どうか鎮まってください、と。人形に対し陽くんが「あの世へ送ってやるんだ」と説いたり、「千引きの石」で榊が怨霊に桃を投げつけたりすることは、忘れられた感情への供養なのである。

ADVERTISEMENT

 無念が生み出される因果は、どうしようもない。しかしどうしようもないからこそ、私たちは感情を軽視しすぎないほうがいいのだ、きっと。抑圧した感情が噴出し、大地に亀裂が生まれてしまったとき、私たちは山岸作品を思い出したほうがいい。

『アラベスク』でも『日出処の天子』でも『舞姫 テレプシコーラ』でも描かれていたことだが――弱さを受け入れ、ときに揺らぐ感情を無視しないことの価値を、私は山岸作品を読むたび、知る。

 山岸凉子作品とは、今を急ぐ私たちが世界の亀裂の底へ転げ落ちていかないように留めてくれている存在なのではないか。そんなふうにも思う。

 作中で繰り返し描かれる、無念な他者の想いを鎮める姿。それこそが私が山岸凉子という作家からもっとも強く受け取った祈り、なのである。

(文芸評論家)