「余裕がありませんでした。まずは危機から脱けることだけを考えていました」

医師は事の深刻さを理解できなかった

午後9時ごろ、マリーナは病院を後にした。

ルゴボイ一行とコフトゥン(注:毒殺の実行犯とされるアンドレイ・ルゴボイとドミトリー・コフトゥン)はこの日(3日)の昼過ぎ、ロンドン・ヒースロー空港からBA874便でモスクワへ戻った。その後二度と英国の地を踏んでいない。

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病院は細菌による胃腸不良を疑い、抗生剤を投与した。

週明け6日の月曜日、病棟を訪ねたマリーナは医師から「おそらく明日にでも帰宅できるだろう」と言われ、胸をなでおろした。気分が軽くなり、帰宅して家中を掃除した。

しかし、翌日には状況が一変する。医師が告げた。

「まだ退院できません」
「何があったんですか」
「免疫力が低下しています」
「血液を調べてもらえませんか。毒物が混じっていないでしょうか」
「なぜですか」

マリーナは初めて、夫が命を狙われる可能性について説明した。それでも医師は危険性を十分理解しなかった。

「地元病院の医師たちは普段、政治と関係しているわけではありません。特に国際関係には詳しくない。話を聞いてはくれましたが、何も対応しませんでした。私はパラノイア(被害妄想者)と思われたのかもしれません」

解毒剤を飲んでも症状は悪化の一途をたどった

リトビネンコは解毒剤を飲んだ。痛みが激しくなってきたため、鎮痛剤も服用した。検査のたびに腎臓や肝臓の働きが鈍くなっている。強靭な肉体の持ち主でなかったら、心臓も動きを止めていたはずだ。原因不明のまま病状が悪化していく事態に医療団は戸惑った。

プーチンの批判者が体調を悪化させている。前月にはジャーナリストのポリトコフスカヤが暗殺された。それなのに警察は動いていない。リトビネンコは重要保護対象になっていなかったようだ。本人も入院が長引きそうだと感じながら、回復を疑ってはいない。マリーナに自宅から本と携帯電話、ひげそりを持ってきてほしいと頼んだ。