その後も症状は回復しなかった。のどの痛みはますます激しくなり、食事が通らない。見舞いにきた友人のバレンチーナは、ベッドに横になるリトビネンコの顔を見て驚いた。肌があまりに黄色くなっていた。病室を出るとマリーナにささやいた。
「肌の色がおかしいわ。肝臓が悪くなっているんだわ」
バレンチーナは全身美容師(エステティシャン)をしているロシア系女性だ。マリーナがロンドンに来て1年が過ぎたころ、ロシア料理店で偶然出会った。全身美容を施してもらったのをきっかけに親しくなる。
12日になるとリトビネンコは激しい痛みのため口もきけなくなった。口内が真っ白になっている。
頭を持ち上げた途端、髪がごっそり抜けた
マリーナが衝撃を受けたのは13日、夫の頭を持ちあげようとしたときだ。髪がごっそりと抜け、枕に髪が付着した。食中毒で頭髪が抜けるとは考えられない。非常事態が起きている。
看護師を捕まえ、大声で叫んだ。
「大変なことが起きているようです」
医師が複数人やってきた。がんの専門医は「まるで抗がん剤治療を受けた患者のようだ」と言った。リトビネンコはがん病棟に移された。
この状態を聞いて、放射線被曝を疑った者がいた。ロシアの著名な元政治犯で、英国に暮らすウラジミール・ブコウスキーである。ソ連・ロシアから逃れた者として互いに交流し、リトビネンコは普段からさまざまな相談に乗ってもらっていた。
神経生理学者でもあるブコウスキーは症状を聞き、ガンマ線被曝について調べるべきだと忠告した。医師はガイガーカウンター(放射線測定器の一種)を患者の体に当てたが、反応はなかった。
食中毒にしては明らかにおかしな症状
マリーナや知人たちが疑ったのはダイオキシン(TCDDの一種)中毒である。
ウクライナで2年前の2004年、大統領選挙に立候補を表明した親欧米派の野党政治家、ビクトル・ユーシェンコが突然、体調に異変をきたした。顔にできた痘痕から疑われたのがそれだった。