人文書の枠組みが変わった

三宅 千葉さんの本をずっと読んできた私としては、そのあたりの意図を聞けて今、感動しました。私が千葉さんの本をはじめて読んだのが大学生の頃でしたが、当時、大学の生協にドドンと平積みされていたのを覚えています。新卒で就職したリクルートの新人研修では、隣の席の男の子と千葉さんの著作の話で盛り上がりました。私の世代にとっては大スターです。

三宅香帆さん

千葉 大学生の三宅さんに届いていたとは嬉しいですね。

三宅 それ以前は東浩紀さん、宇野常寛さん、古市憲寿さんのような社会批評とサブカル批評が一体になった一般向け人文書の流行があって、私自身そこから影響を受けました。でもしばらくして哲学を専門とされる千葉さん、國分さんの著作が出てきたときに衝撃を受けたんです。何か文体に美学的なものが入り込んでいて、一般の人も読める人文書の枠組みそのものが変わったなと。

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千葉 僕とか國分さんあたりの世代から、専門家が専門家向けに書くものと一般書との境界を今までと違うものにしていこうと考えるようになったんだと思います。東浩紀さんの薫陶を受けて、というのもある。ただの一般書ではない、専門家にもある種の専門書としても読んでもらえるもの。國分さんだったら『暇と退屈の倫理学』、僕なら『勉強の哲学』のような新しい啓蒙書を書き始めるようになった。

「創る人」と「鑑賞する人」の垣根

三宅 私は『メイキング・オブ・勉強の哲学』に大きな影響を受けています。執筆のための方法論が書かれているのが嬉しくて。実際にそこからworkflowyを使い始め、目次の作り方も学びました。最近の私の本の書き方のベースになっています。今回の『センスの哲学』でも、文章を書くことや何かを作ることは実は環境やツールから始まっている、と書かれていますよね。

千葉 方法論を語るのも僕らの世代で始めたことですよね。上の世代は書くことを方法化したらダメだとか、文章は流れの中で自然に変化していくものだ、なんてことを言う。でも、実はいろんな方法論を持っているわけです。それを語らないのはマッチョな、完全に自立した主体を設定したいからでしょうね。それに対してツールを語るのは依存を是とするということ。ツールに頼るのは他律的、言ってみれば他者への依存ですから。その意味で、ツール語りも主体性を柔らかく脱構築していくことと結びついていると思います。

千葉雅也さん

三宅 本を書く行為も一人で自律的にやっているように見えて、おのずと他者を取り入れていたりしますものね。それこそ『センスの哲学』で、センスというものは捉えどころがないように見えて実は「こういう構造で成り立っている」と説明してくれています。あるいはそれを生活に落とし込むと一人の部屋だったり、餃子の話になるといった話を展開してもらえると、読んだ人が新たに何かを生み出す行為にもつながる気がします。