研究者、芸術家の仕事は生成装置を作ること
千葉 僕は研究者、あるいは芸術家の仕事というのは、生成AIではないけれど、それを見た人が何かそこから生成するための生成装置を作ることだと思っているんです。だから僕の本を読んで何かを作りたくなってほしい。実は『勉強の哲学』も『センスの哲学』も従兄弟や妹など自分の身近な人たちに実践してきたプライベートな教育活動を本格的に膨らませたものなんですね。「作れる人」と「作れない人」とに分けたくないし、「一緒に作ろうよ」と誘いかけていきたいんです。
三宅 それは言ってみれば「才能の脱構築」ですよね。クリエイティビティは何か特別な人のものであるように言われることも多いけれど、そうではなくて生活の一部だという話を千葉さんはよくされています。
千葉 ただ難しいのは、創造する人と鑑賞者の間の垣根を壊したくないという思いが多くの人のなかにあることですよね。クリエイターの立場で「創造」を特別なものにしておきたい気持ちもあると同時に、純粋な鑑賞者の立場でクリエイターは超越的であってほしいという願望もあるわけです。それが「推し」の論理とも結びついている気がします。
日常にハレを作る装置としての「推し」
千葉 僕は何か圧倒的な人のファンになるという経験が全然ないんですが、三宅さんは推しの話をよくされますよね。「推し活」隆盛の時代に、「推し」をどう捉えていますか?
三宅 実はみんな、推しを超越的な存在として崇拝しているかというとまったくそうではなくて、ある種の非日常として見ているところがあるのかもしれません。例えば私は宝塚が好きなんですけれど、劇場という空間に行っている間は、日常から切り離された体験ができるのが喜びなんですね。何かいつもと違う空気を浴びに行くことができる。
千葉 なるほど、推しとはつまりハレなわけですね。
三宅 まさに「推し」はハレとケを作る装置だと思っているんです。今の時代、祭りも遠ざかり、日常にハレがなくなり、平坦になっている。会社で仕事をする平坦な日常は続くけれど、とりあえずこの日に推しのライブがあるからそこまで頑張ろう、という感じで日常にハレをもたらしてくれる装置として推しがある。推しにまつわるイベントをハレとして特別視することによってケを生きるんだと思うんです。平安時代における「方違え」なんかと同じですよね。
千葉 それによって自分の予定が拘束されることが楽しいんですね。