本作は「自死」を肯定する作品か否か

 同時に、ここでひとつの疑問が生まれる。この映画は自死を肯定しているのだろうか?

 マーサの死はいわゆる安楽死に該当するが、それは本作の舞台となるアメリカでも認められておらず、安楽死に加担した人間は刑罰の対象となる。とはいえ、マーサ自身は、イングリッドが自身の決意を「知らなかった」と弁明できるように計画を進めていた。イングリッドはマーサが命を終えたのち、警察に事情聴取を受けるが、少なくとも物語のなかでは彼女が逮捕されることはない。取り調べを担当する刑事は、イングリッドがマーサの計画をあらかじめ知っており、「あなたは計画に加担したはずだ」という疑いをいささか執拗に向けるが、イングリッドは「弁護士を介して」とその場をうまく切り抜ける。少なくとも劇中においては、彼女が何らかのペナルティを受けることはない。

 ここでいう「ペナルティ」とは、法的な次元における形容であるが、心の傷つきといった次元においても同様であろう。もちろん、マーサの死に対しては深い悲しみを覚えるイングリッドだが、彼女の計画に加担し、それをまっとうしたこと自体については、何らかの葛藤やうしろめたさを見せることはない。こうした結末を見て、本作を「自死を肯定する作品」と考えることは、あながち不自然なこととも言えないだろう。

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 自死を表面的には否定しているようには見られないこと、とりわけその自死が安楽死という、法的には認められていないものであること――。『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』は、こうした二重の倫理的な隘路を通っている。しかし、筆者は本作への「自死を肯定する作品」という解釈には異をとなえたい。――いや、仮に『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』に対して「自死を肯定する作品」という側面を感じるとしても、それはあくまでも本作の「生の称揚」における副産物であり、自死の肯定そのものが、本作の主眼ではけっしてないのだ。

アルモドバルが描く死は生の輝きを逆照射する

 どういうことか。ペドロ・アルモドバルは、「痛み」をともなった連帯を通して、人間の生命の強さを描き続けてきた。たとえば『ボルベール〈帰郷〉』(2006)においては、一家の夫が娘に刺殺されるという事件を契機として、世代の異なった女性たちの絆が深まっていく過程が描かれていたし、新生児の取り違え、およびその片方の死を通してふたりの女性が母としての愛に目覚めてゆく『パラレル・マザーズ』(2021)も然りである。そうした試みは直近の作品であり、20世紀初頭のアメリカを舞台にした西部劇『ストレンジ・ウェイ・オブ・ライフ』(2023)でも同様に息づいている。そこでは、かつて深い愛で結ばれたクィアの保安官たちが銃による決闘を行い、傷ついた片方をもう片方が治療するという、いささか日常的には想定しづらい過程を通じて、ふたりがふたたび絆を取り戻す過程が描かれるのである。