みずからの命を絶つことは「悲劇」だろうか。ふとそう思うことがある。
このような問い自体が、傲慢さをともなったものであるかもしれない。たとえば、報道で見るような自死について考えても、むしろそれが「悲劇」と無縁であるような事例を探すほうが難しいだろう。もちろん、利害関係のない第三者がその死の背景の断定や、価値判断を行うことには差し控えるべき側面があるだろうが、他者の自死に対して「悲劇」の色を感じないことのほうが、倫理観の、ひいては人間的な情愛の不足を示しているのかもしれない。
とはいえ、いちど現実を離れ、フィクションにおける「自死」を考えれば、それが多くの場合で物語を躍動させ、受け手を高揚させる役割を果たしていることもまた確かだろう。ただでさえ軽くない「死」のなかに、亡くなった本人の手でもたらされたものであるというスパイスが加わることで、作品には波が生まれ、受け手は少なからぬ心の振動を覚えることとなる。作り手たちももちろんその効果を熟知しているからこそ、多くの物語で受け手を魅了する「自死」は描かれてきた。
不思議な魅惑を含む「自死」を描いた作品群に連なる一作
映画においても、もちろんそれは例外ではない。思いつくままにいくつかの例をあげると、伴侶と愛人の両方から別れを告げられ、自身の敗北を突き付けられながらも、ピストルを自身の胸に押しあて、生涯の「幕引き」を行う美青年の官能的な動き(ルキノ・ヴィスコンティ『イノセント』)。自身たちに押し着せられた不名誉を濯ぐため、ともに刀で喉をついた商人と遊女の、朝焼けとともに映し出される晴れやかな死出の表情(増村保造『曽根崎心中』)。不治の病を抱える妻のために自身の手を血に染めた男が、最後には海の際で、妻を抱き寄せながら響かせる二発の鮮やかな銃声(北野武『HANA-BI』)…。このような「自死」を彩るピースには、「自死」そのものがもたらす悲劇性を凌駕するような、不思議な魅惑がふくまれていることもけっして珍しくはない。
いささか前置きが長くなったが、ペドロ・アルモドバルによる『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』もまた、そのような作品群の系譜を継ぐ一作である。しかし、それが「自死の美学」と断言できるかといえば、いささかの考慮の余地がある。
主人公のひとりは、小説家のイングリッド(ジュリアン・ムーア)。ある日、書店でサイン会をしていた彼女のもとに、長年会っていなかった友人マーサ(ティルダ・スウィントン)の近況が届く。マーサはがんを患い、重篤な状態であるというのだ。いてもたってもいられなくなったイングリッドは彼女のもとを訪れ、久方ぶりの再会を果たす。それからふたりは、会っていなかった歳月の中のできごとをはじめ、病室でさまざまなことを語り合うようになる。