はっきりとした答えは出さないが
改めて気づかされる。
簡単な図式で描けるほど、社会は単純にはできていない――
この言葉は、「万引き家族」のテーマにもぴったりと当てはまるではないか!
「万引き家族」に限らず、是枝映画は単純な要約を拒む作品ばかりだ。観た人の気持ちをざわつかせ、映画をどう解釈したらいいのか、考えさせる。はっきりとした答えは出さないが、ものの見方の多様性を提示する。そんな是枝監督のありようは、デビュー作のドキュメンタリーから一貫していたのだ。
話を番組に戻すと、是枝はそれまでの悶々としたテレビマン生活のうっぷんを晴らすかのように、取材に出る。そして通常の1時間番組では異例なほど多くの人にインタビューをしている。もしかすると編集でカットした人もいたかも知れない。そのインタビュー相手の中には、自殺した官僚・山内氏の妻・知子さんや、自殺したホステスがテープで告発した福祉事務所の男性ら、取材を断られて当たり前のような人も含まれる。夫の自殺後マスコミが殺到し、どのメディアの取材も受けなかった知子さん。傷心であるはずの彼女からカメラを向ける承諾を得て、心の内を引き出し、環境庁が発表しなかった遺書も見せてもらう。加害者のようにもとれてしまう生活保護を打ち切った側の男性に、自殺したホステスの告発テープを聞かせ、その場で話を聞く。そもそも、二人の自殺した人が主人公なのだから、周囲の人間で喜んで取材を受けた人などいなかっただろう。それなのに、これだけのインタビューが撮れている。そして、この時是枝は28歳ということを考えると、ほぼすべてのインタビュー相手が年上だ。(おそらく全員だ)
是枝ディレクターの恐るべき取材者ぶりと「人間通」
私の頭に浮かんだのは、「人間通」という言葉だ。
ドキュメンタリーの取材では、相手に嫌われては何も撮れない。それでいて、聞くべきことを聞かなくてはいけない。聞くときには、相手の立場や状況、さらに言えば生い立ちにまで、想像力を働かさなくてはいけない。この人はどういう人で、いまどういう状況で、どう接すれば胸の内を引き出せるだろうと、頭の中を何回も何回もぐるぐるぐるぐる回さなくてはいけない。是枝監督は、若くしてこれをやっている。それもものすごく高いレベルで。「計算」というのとは違う。被写体がどんな人であれ、適切な距離をとって関係を結ぶことができる「人間通」なのだ。冒頭で記した、恐るべき取材者ぶりと私が思うのは、この部分である。そして…
《取材で発見したものを構成に組み込むことで、番組はより複雑な現実に対峙できる強度を持つ、ということを僕はこのとき身をもって実感しました。
それは、自分の先入観が目の前の現実によって崩される、という快感でもあったのです。》(前掲書より)
事前情報によって決めつけた構成ではなく、徹底的に取材をすることで番組を再構成していく。作っては壊し、作っては壊しながら、1本の番組を構築していくドキュメンタリーの醍醐味を、是枝はこの極めて難しい題材で実践する。