是枝裕和28歳のドキュメンタリー作品「しかし…」
私が学生だった90年代前半の「NONFIX」は、とにかくチャレンジングな企画をチャレンジングな手法で放送し、異彩を放っていた。NHKの、本格的ではあるがどこか紋切り型なドキュメンタリーとは一線を画す、若さに溢れた番組の勢いと作り手の強い個性が感じられる特別な枠だった。その中のディレクターには、当時は無名だった是枝監督や、後に作家で映画監督となる森達也さんらがいた。他にも、いまもテレビ業界で活躍する優れた先輩ディレクターたちの名を何人も挙げることが出来る。それほど、この番組は人材輩出能力も高かったのだ。
余談だがその後1995年に私はフジテレビに入社する。55人同期がいる中で、新入社員紹介号の「好きな番組」欄に「NONFIX」と書いたのが私一人だったので驚いた記憶がある。(でもよく考えてみれば当たり前だ。当時のフジテレビと言えば、ドラマやバラエティが今では考えられないほどに輝いていた時代だったのだから。)
ということで、今回は是枝ディレクターが28歳の時に発表したドキュメンタリーデビュー作、「しかし…~福祉切り捨ての時代に~」(ギャラクシー賞優秀賞受賞作)について書いてみたい。
是枝監督は大学を卒業後、番組制作会社の老舗「テレビマンユニオン」に参加する。同社の設立理念に共感していた若き是枝青年だったが、実際の制作現場における理念と実態のかい離や、自分自身がうまく立ち振る舞えないことへの苛立ちから、出社拒否のような状態にまでなったという。その後海外取材モノのレギュラー番組でディレクターデビューを果たすも、決められたフォーマットに即して番組を作ることに反発、ロケの失敗もあってプロデューサーを怒らせ、1本番組がボツになったという。
是枝監督は著書でこの件を冷静に振り返っているが、お金をかけ、大勢の人が関わって作るテレビ番組(それも海外モノ)がボツになるということが、組織に所属するディレクターにとってどれだけダメージになるかは、同じディレクターの私にはよくわかる。若き是枝ディレクターが(おそらく)背水の陣で、フジテレビに企画を持って行き、制作することになったのが「しかし…」だ。
ホステスの自殺と、官僚の自殺
私は学生時代にリアルタイムで観て、フジテレビ入社後に自分が「NONFIX」を作る時(1997年)に勉強のために観て、今回本稿を書くためにおよそ20年ぶりに観た。素晴らしい番組だったというおぼろげな記憶はあったが、私自身が経験を積んだからだろうか、今回の視聴が最も心に響いた。いや、もっと言えば、打ちのめされた。
ドキュメンタリーのディレクターとは、取材者であり表現者である。この番組で是枝裕和は、まず恐るべき取材者ぶりを発揮する。その取材力を検証しよう。
是枝は生活保護と福祉をテーマに取材を進めるうちに、保護を打ち切られ追い詰められて自殺した、46歳のホステスの告白テープに行き着く。テープには福祉事務所の職員から「女なんだから稼ぐ方法はいくらでもあるだろう」と言われたことなど、驚くべき内容が含まれる。是枝は当初この自殺した女性と、生活保護を打ち切った側の対立というテーマで番組を作ろうとしていたが、新たな情報が飛び込んでくる。それは、環境庁の企画調整局長・山内豊徳氏が、水俣病裁判の国側の責任者として患者と行政の板挟みになって自殺したというニュースだった。山内氏はもともと厚生省のエリート官僚で、生活保護行政に熱心に取り組んでいた人だ。その山内氏が、官僚としての人生に挫折し、自死を選んだ。そのことを知り、是枝は――
《僕は番組の構成を考え直すことにしました。「被害者である市民」と「加害者である福祉行政」という簡単な図式で描けるほど、社会は単純にはできていなかったのです。》(「映画を撮りながら考えたこと」是枝裕和著 ミシマ社刊 より)