「先輩には敬語を使うんだよ」高校時代に感じた東京本土と青ヶ島の“ギャップ”

 そして、無事志望校に合格。憧れていた本土での女子高生生活がスタートしました。が、最初は東京本土の生活に戸惑うことも多かったです。

 青ヶ島はとにかく人が少ないので、島民は全員顔見知り。だから、道ですれ違ったら誰彼関係なく挨拶する。子どもの人数も多くないから、学年関係なくタメ口で話していました。

 そんな環境で15年間生活してきたから、高校の友達に「1歳しか違わなくても、先輩には敬語を使うんだよ」「知らない人にいきなり挨拶したら、びっくりされちゃうよ」と言われたときには、衝撃でしたね。あとは、休み時間に友達同士でトイレへ行く“連れション”文化にも驚きました。

ADVERTISEMENT

 ただ、戸惑ったのは最初くらい。放課後はタワーレコードに寄ってCDをジャケ買いしたり、友達と原宿でショッピングしたり。夏休みには、ギャル系サーフショップでアルバイトもしました。当時はギャルブームがあって、私もギャルだったんです(笑)。

佐々木加絵さん(本人提供)

30歳を過ぎてから、青ヶ島と東京本土での2拠点生活を考え始めたが…

 高校卒業後は、美容院に就職。長期休みを利用して、美容師資格が取れる専門学校に通いながら、横浜の美容室で働いてました。その後は、原宿でアパレルのデザイナーアシスタントをしたり、ネイル用品の生産管理をしたり、エンタメ会社でデザイナーをしたり。

 ファッションやエンタメが好きなので、関連の仕事をいろいろやっていました。20代の頃は、仕事が楽しくてしょうがなくて。美容室で働いていた時は、毎日終電まで働いても平気でしたね。東京本土の生活は刺激的で、20代の頃はあまり青ヶ島に帰っていませんでした。

 でも30歳を過ぎてから、少しずつ気持ちが変化してきて……。「このまま、家族がいない東京本土で働き続けて幸せなのだろうか」「10年後、20年後も、同じような働き方ができるのかな」と、漠然とした不安を感じるようになったんです。

 東京本土で大好きなエンタメやファッションに触れながら、青ヶ島で家族との時間も大切にできないか。その頃から、青ヶ島と東京本土での2拠点生活を考え始めるようになりました。

 その当時はエンタメ会社でデザイナーをしていたのですが、「フリーランスのデザイナーになれば、2拠点生活が叶うかも」と思って、デザインを勉強し直したりしていたんです。父の訃報が届いたのは、そんな矢先でした。

取材・文=仲奈々
写真提供=佐々木加絵

次の記事に続く 絶海の孤島・青ヶ島在住の41歳女性が明かす、「日本一人口の少ない村」に“ずっと住みたい”と思うようになったワケ「最初は東京本土に戻るつもりだったけど…」

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。