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大きな変化のきっかけは1922年。駅北側に立川飛行場が開設される。以後、航空関係の施設が周辺に建ち並ぶようになって、すっかり立川は航空産業都市として発展していった。
1929年には「東京飛行場」の名で日本初の定期航路が就航したこともあったが、1931年に現在の羽田空港が完成してからは、軍事目的100%の軍用飛行場。周辺には陸軍の施設が集まり、軍用機を製造する石川島飛行機製作所(のちに立川飛行機に改称、現在の立飛グループの前身)の工場も置かれている。
こうして空の町、軍都となった立川は、将兵や工場で働く従業員が多く暮らす町になり、それに呼応するように駅周辺の市街化も進んでゆく。
北口の商店街もルーツを紐解くと…
北口には「シネマ通り」という細い路地の商店街が残っているが、それはかつて飛行場の正面から続いていた繁華街のひとつ。この一角には戦前から戦後にかけて、多くの映画館が建ち並んで賑わっていたという。
また、駅の北にも南にも歓楽街が形成され、中には花街もあったという。軍隊あるところ歓楽街あり。花街があった一帯は、立川駅南口、場外馬券売り場などがある歓楽街に引き継がれている。
ともあれ、立川飛行場ができた直後には人口5000人ほどだったところ、1940年には3万人を超えている。わずか20年ばかりのうちに、農村地帯の立川は一気に“都市”に成長したのである。

