ーー外見や容姿を重視している人、と思われたくなかったんでしょうか。お母さん、進歩的な方ですね。
アンヌ 母も父も大学教員で、人より理屈っぽかったり考えすぎるところもあるかもしれませんが、その当時でも、北海道ではハーフの子がまだ珍しかったんだと思います。家族で行った旅行先のホテルの広い食事会場でじろじろ見られたり、声をかけられたりして、私もそれは変だなと思っていました。
母や父は外見を売りにしない人生を歩んでほしいと思っていたようです。メイクや服装にも厳しかったですが、その分本はたくさん買い与えてもらったり今の自分の性格の素地はそちらにあると思います。
とにかく“とがって”いたTBSアナウンサー時代
ーーTBSのアナウンサー時代は、ラジオ番組『ザ・トップ5』で共演されていたジェーン・スーさんから「ナタリー」と呼ばれていたので、ナタリーがミドルネームかと思っていました。
アンヌ 家族内でのあだ名が「ナタリー」だったとスーさんに話したところ、面白がっていただいてそれからナタリーと呼ばれていましたね。
TBS時代、私はとにかく“とがって”いたもので(笑)、「自分からハーフとは言いません!」という、意地みたいなものがありました。顔を見ればすぐわかるのに。いまになって思えば「アンヌ」も使えばよかった、もったいないことをしたと思います。
ーーアンヌさんは、学生時代にフリーアナウンサーを多く抱える事務所、セント・フォースに所属されていましたが、元々アナウンサーを志望していたんですか?
アンヌ 若い時からずっとこんなハキハキ口調だったので、お茶の水女子大学に入学してすぐ、友達からアナウンサーになればと勧められたのがきっかけで、意識するようになりました。
在学中にも、別の友人からセント・フォースという事務所があることを教えてもらい、会社のホームページに募集要項も書いてあったので履歴書を送ったんです。ちょうど広島旅行に行った時の、実物の2倍増しくらいよく撮れた写真があったので(笑)、厚かましくもそれを添えて。それから事務所に所属して、テレビにも出演させていただきました。
ーーその後、TBSに就職したのは25歳の時ですね。
アンヌ 大学を卒業したあと、日本美術史を研究するために大学院の修士課程に進み、そのまま博士課程へ行くのもアリかな、と思っていました。
けれど、修士1年の時に、『高学歴ワーキングプア/「フリーター再生工場」としての大学院』(2007年・光文社新書)という新書が周囲で大流行したんです。博士号までとって大学院を出ても、非正規雇用が多く、なかなか就職できないと書かれたその本を読んで恐ろしくなり、就職しなくちゃ、会社員にならなくちゃ、と慌てて就職を考え出したんです。
では、就職先はどこがいいかと真剣に考えると、アナウンサーかどうか別として、テレビ局やラジオ局がいいなと。私は子供の頃からテレビやラジオが純粋に大好きなんです。テレビ見たさに放課後急いで帰ったり、子どものくせにHBCの『テレフォン人生相談』を聴いたりして、「夫が不倫? それはよくないな~」なんて言っていたんで。
放送局への就職は大変なので、正直なところ、入れるならどこでもありがたかったんですが、美術史を学ぶきっかけは『世界ふしぎ発見!』(1986年に放送を開始。24年3月いっぱいで終了した長寿番組)を見ていたから。その番組を制作しているTBSに入れたのは、すごく嬉しかったです。
