“取らぬ怪獣の皮算用”をしていた頃
山田 高野と初めて会ったのは1991年だけど、実はそれ以前の88年にニアミスしてるんですよ。高野がアフリカ・コンゴのテレ湖にムベンベを探しに行ってたときに。
高野 僕がまだ早稲田探検部にいた頃の話で、8歳年上の山田隊長は東京農大の探検部出身でした。
山田 僕は在学中に南米の三大河川であるオリノコ川、アマゾン川、ラプラタ川を舟でめぐったあと、85年頃からアフリカの川をずっと探検して回ってたんですね。で、88年にコンゴの川を下っているときに、「この先をもう少し行ったジャングルの中で、高野ってやつが怪獣ムベンベを探してるらしいよ」と聞いたのが名前を知った最初です。
その後、89年にナイル源流が治安悪く、川旅を一時中断し、91年からアフリカのチャドで植林のプロジェクトを始めました。フランス語で現地の政府とやりとりする必要が出てきて、「誰かフランス語ができるやつはいないか」と探していたら、探検部の後輩に紹介されたのが高野。「我々は金がないんで、晩飯と酒つけたら申請書とか書いてくれるか?」ってお願いしたら書いてくれてね(笑)。
高野 僕はコンゴに怪獣探しに行っていたので、コンゴ政府とフランス語でやりとりしていたんですね。もしムベンベが見つかったら、どちら側にどういう権利があるかとか、契約書を作るために交渉していたんです。「最初に発表する権利は、絶対にうちに欲しい」とか、取らぬ怪獣の皮算用をやっていた(笑)。
だから、アフリカのフランス語圏の政府に出す公式文書を書くのがすごく得意になっていて、その特殊能力が活きたわけです。
丸山 山田隊長は怪獣探している後輩がいるって聞いて、どう思いました?
山田 純粋に面白いなって思ったよ。ムベンベは、ネッシーみたいに「もしかしたらいるかもしれない」と日本でも紹介されていたし。
高野 でも当時ね、怪獣探しなんて「邪道」だったんですよ。探検部の世界でも揶揄されていたから(笑)。
丸山 探検家界隈では、山田隊長はすでに伝説でした?
高野 そりゃもう川下り冒険のレジェンド。南米の三大河川のあとアフリカに行って、日本にも滅多に帰ってこない、伝説の人ですよね。
人生最悪の時期に隊長が声をかけてくれた
丸山 そんな山田隊長と高野さんが、一緒にアフリカを旅し始めたのは、川つながりだったんですよね。
山田 チャドで5年間植林をした後、木を植えながら、カヌーでナイル川を下る計画だったんです。当時はウガンダ(北部)とか南スーダンあたりの治安がすごく悪くて、アフリカ人のあいだでも「あそこだけは行くな」というところだった。だからそれ以上一人でまわるのは危険で、ウガンダから「高野、暇か? 4か月一緒にナイル川を巡れるか?」って言ったら「行けます!」という。
高野 今から考えるとすごい話ですよ。英語とフランス語がある程度できて、アフリカをある程度知っていて、4か月仕事ができて、しかもノーギャラ。普通そんな人材いるのか?
山田 日本全国探しても、1人しかいないだろうね。それが高野だった(笑)。
高野 でもそのとき僕は人生最悪の時期で、直前までミャンマーのワ州でアヘンの取材をしていたわけです。アヘン取材に人生を賭けていたのに、書いた原稿は全く出版社に相手にされない。酒をどんどん飲むようになって、アル中になってしまった。
30過ぎて仕事もない、貯金もない、彼女もいない。「自分は何なんだ?」という思いがグルグルめぐる日々で……精神的に本当にヤバかったときに隊長からそんな話がきたから、タダで4か月アフリカに行けるだけで、とても嬉しかったんです。