この程度の金額ならすぐ返済できそうに思えるが、そうはいかなかった。前借金には膨大な利息がつけられ、日常生活に必要な金額は、すべて女郎の持ち出しというあつかいだったので、長期間縛られ、原則として「年季は10年、27歳まで」とされたのである。

髪の毛が抜け、鼻がもげる病

しかも、それは原則にすぎなかった。女郎として働けるのは15歳くらいからだが、早ければ5歳や6歳で売られることもあった。その場合、7歳~8歳ほどで禿として、花魁の身の回りの世話をしながら、芸事や教養などを身につけた。ただ、客を取れるようになるまでのあいだは「唯養い」とされ、あくまでも15歳以降の10年が年季とされた。

それに、生活するなかでさまざまな出費がかさみ、それはすべて妓楼への借金とされたので、実際には、10年では年季が明けない例が非常に多かった。

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だが、年季が明けるまで命がもてばマシだった。ほぼ毎晩のように性行為をしなければならない吉原の女郎たちは、梅毒の感染率がきわめて高かった。当時も「すべての遊女が初年のうちに梅毒を患う」といわれていた。

感染すると、最初は局部に痛みが生じ、発熱や関節痛などの症状が出る。次第に皮膚に発疹が現れ、それが全身の腫瘍に発展。続いて髪の毛が抜け落ちるなどし、さらに進むと鼻の周辺にゴム腫ができ、骨や皮膚の組織が壊れて鼻が削げてしまう。最後は心臓や血管にまで感染症が広がり、やがて死にいたった。

こうして命を落とした女郎たちは、親が江戸にいれば引き渡されたが、親元が遠国の場合は粗末な棺桶に入れられ、三ノ輪の浄閑寺(荒川区南千住)や、吉原につながる日本堤の上り口にあった西方寺(豊島区西巣鴨に移転)に葬られた。江戸の廓の裏側を実地調査した往年の歴史学者、西山松之助の著書『くるわ』によれば、浄閑寺の過去帳には、この寺に遺体が運ばれた女郎の享年の平均は22.7歳だった、と記されている。