そこで瀬川は観念し、鳥山検校に身請けされることを決心。吉原から抜け出すための通行切手が挟まれた貸本を蔦重に返却して、こう告げた。「このばからしい話を重三が勧めてくれたこと、わっちはきっと一生忘れないよ」。
蔦重と瀬川の悲恋も、瀬川の足抜け計画も、むろん「べらぼう」の創作である。だが、吉原の女郎たちが置かれていた境遇は、このフィクションをとおしてよく伝わる。年季が明けるまで勤め上げるのは非常に困難なことで、だからこそ足抜けを試みる女郎は後を絶たなかったが、まず成功しなかった。
「苦界」から早く解放されるほぼ唯一の手段は、妓楼が女郎という大切な「商品」を手放しても、それを補って十分に余りがある利益を得られた身請けだったのである。
妓楼が貧農の娘につけた「値段」
いねが語ったとおり、吉原が「不幸なところ」だったのは、女郎たちが人身売買の対象だったことに起因する。幕府は大坂夏の陣の翌年の元和元年(1616)に、人身売買禁止令を発布しており、このため吉原の女郎も妓楼に年季奉公しているという建前だったが、実際には、貧しい親が給金を前借りするかたちで娘を妓楼に売り渡していた。それは事実上の人身売買だった。
親が直接、娘を妓楼に売る場合もあったが、多くの場合は、女性を妓楼に斡旋する女衒が仲介した。女衒は各地をまわり、困窮した親を口説いて娘を連れてきた。では、娘を売った親はどの程度の金額を手にしたのだろうか。
落語の『文七元結』や『柳田格之進』では、50両(500万円程度)ということになっているが、実際はもっと安いことが多かったようだ。文化13年(1816)に成立した『世事見聞録』には、貧農が娘を「わずか三両か五両の金子に詰まりて売るという」とある。30万円とか50万円という金額で売っていたというのである。
幕末に書かれた随筆『宮川舎漫筆』には、下級武士の娘が困窮した家族を救うためにみずから身売りした例が載せられ、金額は「十八両」と書かれている。武士の娘だと箔がついたが、それでも180万~200万円程度だったというのだ。