身請けは妓楼にとって大チャンス

だからこそ、女郎にとって身請けはありがたかった。身請けとは客が妓楼に身代金を支払って年季証文を買い取り、女郎の身柄をもらい受けることを指す。

だが、身請けには莫大な金がかかった。年季の残額を払えばいいというものではなく、妓楼の主人(楼主)の言い値で身代金の金額が決まった。さらに身請けする客は、ほかの女郎や妓楼の奉公人たち、引手茶屋、幇間、芸者などに金品を送り、盛大な送別の宴も自己負担で開かなければならなかった。

このように妓楼が大儲けできるチャンスだったからこそ、女郎に身請けという逃げ道が許されたのである。

ADVERTISEMENT

元禄3年(1700)に三浦屋の女郎だった薄雲が、町人に身請けされた際は、350両(3500万円程度)が支払われている。その際、三浦屋から薄雲に衣類や布団、手道具、長持などがあたえられている。

350両は身請けの身代金としてはかなりの高額だが、一般には、すぐれた先輩の名跡を受け継いだ女郎が、高額で身請けされるケースが多かった。

たとえば「高尾」。二代目高尾は万治元年(1659)、仙台62万石の藩主、伊達綱宗に身請けされた。三浦屋の当主は身代金として、高尾の体重と同じ重さの小判を要求したという。だが、綱宗の逆鱗に触れるようなことが発覚し、隅田川の船中で惨殺されたと伝わる。

2億5000万円で身請けした姫路藩主

「高尾」は三代目が水戸藩の為替御用達に、四代目が「三万石の浅野壱岐守」に身請けされたという(浅野壱岐守はだれだかわかっていない)。もっともすごいのは六代目で、寛保元年(1741)に姫路藩15万石の当主、榊原政岑(まさみね)に2500両(2億5000万円程度)で身請けされた。

だが、倹約令によって質素倹約が勧められている最中の派手な振る舞いが、将軍徳川吉宗の逆鱗に触れ、政岑は不行跡を理由に謹慎処分となり、強制的に引退させられた。ちなみに榊原家は越後高田(新潟県上越市)に転封となり、六代目高尾も高田に同行している。その後、2年もしないで政岑が没すると、側室に呼ばれて江戸に移り、榊原家の下屋敷に住み、剃髪して政岑の菩提を弔って過ごしたという。