彼女は毀誉褒貶相半ばする加藤の風評について、妻の立場からこう語っていたが、その後、恭の高裁判決を20日後に控えた2020年7月2日に急逝した。
ダンボール数百箱分の遺品
その日も加藤宅で話を聞き、夜には3人で赤坂に天ぷらを食べに行って、別れた後、恭は同じマンション内に借りていた自分の部屋に、幸子は自宅に戻った。そして深夜、入浴中に突然死したのだ。浴室には、趣味で解いていた数独の冊子がふやけた状態で残されていたという。
「母が亡くなりました」
翌日、恭からの電話で彼女の訃報を伝えられたが、驚きのあまり言葉もなかった。最期の日、彼女はいつになく饒舌だった。
「結局、今考えると、あの人は仕事ではその時々で仲間がいましたが、友達と言える人は私しかいなかったんじゃないかと思います」
そして事件が息子の恭にも波及したことについてはこう述べていた。
「恭は共犯とも言えない存在なのに、検察は面子と追徴金を取りたいがために強引な捜査をした。仕事を手伝っていたのは私ですから、私を起訴すればよかったんです。今回の事件で、恭の将来を奪ってしまったことを本当に申し訳なく思う」
その後、加藤夫婦が残した段ボール数百箱分に及ぶ遺品は整理され、約50箱がトランクルームに預けられた。そこには刑事裁判や民事裁判の記録だけでなく、膨大な株式関連データや全国の神社仏閣を巡って寄付を重ねて来た返礼として送られた数々の証文があった。そして自筆のメモのほか、前述の住所録や名刺の束が残されていた。
さらに投資家会員から寄せられた称賛や怨嗟の夥しい数の手紙に交じって、元検事総長や元警視総監からの手紙や株式市場で名を売った投資ジャーナルの中江滋樹が加藤に送った手紙なども残されていた。加藤の7歳上の実姉、磯野恭子は、紫綬褒章も受章した女性ドキュメンタリー制作者の草分け的存在だったが、その手紙からは加藤を溺愛し、母親代わりだった様子が窺い知れた。しかし、3歳上の実兄、加藤裕康からの「人の痛みを知れ」などと書かれた怒りに任せた200通を優に超える手紙も含まれていた。きょうだいにさえ敵と味方が混在していた。
伝説の相場師、加藤暠。その足跡を彼の原点、広島県江田島市の瀬戸内海に浮かぶ能美島から辿っていく。
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