酪農が地域の基幹産業になるまで
「違う、違う。我々は、牧草を育てる牧草地を『畑』と呼ぶんだよ」と本多は笑った。牧草を育てる「畑」と、牛を放す「放牧地」の区別さえ、私はついていなかった。
本多の家は父の代に標茶に入り、1頭の仔牛から酪農を始めた。農閑期である冬にだけ学校に通う季節定時制高校を出てから58年、酪農家として生きてきた本多は、戦後、アメリカとの関係を深めた日本の食生活が様変わりし、日本人が牛乳を飲み、バターやチーズを日常的に食べるようになるまでの時代の移ろいを知る生き字引だった。
もともと、標茶の開拓が本格化した大正末期、本州から集団入植した人々が森を切り開いて試みたのは米や麦、豆だった。家畜として牛を飼う者はいたが、1頭、2頭のレベルで、多くは冷害に苦しみ、米作も畑作も諦めて去っていった。
最大の理由は、夏の気温が上がらないことにあった。寒流である千島海流が太平洋岸を流れる影響で、気温は夏でも20度を超える程度。積算温度が足りず、米も野菜も成長しなかった。
酪農が盛んになったのは戦後、満州や樺太など外地からの引き揚げ者や、東北を中心に本州では土地を得られなかった者たちが「戦後開拓」に入ってからだった。1954年に「酪農振興法」が施行され、2年後、北海道庁は標茶町を含む根釧地域を「集約酪農地域」に指定する。
それをきっかけに大規模な集乳施設が建設され、酪農が地域の基幹産業になっていった。北海道のなかでもとくに厳しい環境に適した唯一ともいえる産業が酪農だった。
家族経営の酪農家にとって欠かせない場所「牧野」の変化
本多は、猟友会に所属するハンターでもあった。自身の牛は被害に遭ってはいなかったが、茶安別で襲撃が起きると必ず連絡が入るため、ほぼすべての情報を把握していた。OSO18の被害が集中していた「牧野(ぼくや)」について教えてくれたのも本多だった。
「牧野」とは、春から秋にかけての放牧地を意味する。地域の酪農家たちが共同で管理し、まだミルクを出さない妊娠前の牛や、子牛などを放牧する。牛舎で世話をする手間を減らすためだ。春から秋は放牧地で草を食めば、十分に育つ。家族経営の酪農家が多い標茶で、牛の世話をする負担を少しでも減らすための知恵の賜だった。
「OSO18には、牧野の牛が襲われているんだけど、我々みたいな家族経営の酪農家にとって、牧野は欠かせない場所だったんだよ。だけど、牧野は、昔と変わってしまった」
