地域で守ってきた「牧野」がヒグマの格好の餌食に

 変化のきっかけは、少しずつ、だが着実に進んできた酪農の大規模化だった。本多が高校を出た1961年には、標茶で1000軒はいた酪農家は、200軒を切っていた。最初は、ほとんど横並びに、家族ごとに始めた酪農経営も、1頭の牛が出すミルクの量や、投資の成否によって次第に差が生まれた。

 経営が苦しくなった農家が離農して土地を手放し、その土地を裕福な酪農家が手に入れる。経営拡大に成功した酪農家は、大規模な牛舎を建てて、そのなかで1年中、牛を飼うことが多く、放牧する農家は激減した。結果、管理が手薄な牧野が出てきたのだと本多は言った。

「昔だったら、どの牧野にもたくさん牛が入って、誰か彼かが毎日見に行ってたけど、そういうこまめな管理ができない場所が出てきてしまった。OSO18にとってみれば、いくらでも襲いたい放題だな」

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 本多の住む茶安別では、酪農が普及する以前、ほとんどの家が炭焼きで生計を立てていたという。炭焼きとは、ナラやブナの木を燃やして燃料となる木炭をつくる仕事で、木炭は、火鉢や囲炉裏、炬燵(こたつ)などの燃料として欠かせなかった。

 だが、電気やガスが普及する1960年代に使用されなくなり、多くの家が酪農業に乗り出した。そうして細々と始まった酪農業を維持するために、地域で守ってきた「牧野」が、数十年の時を経てヒグマの格好の餌食になっていた。

写真はイメージです ©KhunTa/イメージマート

提供写真の中にはとても直視できない写真も

 有元と手分けして、被害にあった酪農家を特定していった。襲われた牛は57頭だったが、複数が被害にあった酪農家もいて、全部で29軒だった。そのうち取材を断られた3軒以外の26軒の方に会い、詳細を確かめ、写真の提供承諾書にサインをもらっていった。

 襲われた牛に特定の傾向はない。妊娠牛もいれば、生後半年くらいの子牛もいた。全57頭のうち、乳牛は45頭で、12頭は肉牛だった。

 酪農家たち自身が撮った写真や、承諾を得て役場から提供された写真は、300枚にのぼった。斃れた牛は腹を裂かれ、内臓がかきだされている。傷つけられただけの牛は、背中に爪痕だけが赤く滲んでいる。とても直視できない写真も数多くあった。

 襲われた具体的な地点を特定すると、国土地理院の白地図に落とし込んでいった。大半が「牧野」で被害にあっていたが、例外もあって、伊東公徳の牛は、自宅からほど近い沢で襲われていた。父の代に福島からやってきた伊東は、30頭あまりの牛を飼う小規模経営の酪農家で、朝夕の乳搾りと餌やり以外のほとんどの時間、自宅のそばにある小さな放牧地に牛を出していた。