小説にはマンガのようなコマ割りがない。どんな重要なセリフも一行の言葉は一行だ。その言葉を見開きページの中でどのようにコマ割りするか、という演出には、それぞれの漫画家の解釈、世界観が現れる。中でもとりわけこの壬氏との会話のシーンは、2つのコミカライズの作者の資質、ストーリーテリングの持ち味がそれぞれに発揮された名シーンになっていると思う。こうした形でプロによる2作の「演出と構成」を比較できるのは、マンガという表現形式にとって貴重である。日本各地の漫画専門学校の教材にしてもいいのではないかと思うほどだ。
アニメ版で注目したい「声」の表現
解釈と再構築については2つのコミカライズに加えて、放送中のアニメも同じだ。洞窟の中で壬氏が体勢を入れ替えて猫猫を下に抑え込むシーンでは、頭と腰に手をあててケガをさせないようにするアニメ独自の演出があった。『薬屋』アニメには総作画監督中谷友紀子から原画まで、女性アニメーターが数多く参加しており、このシーンの作画演出の意図も聞いてみたいところだ。
第35話と36話の間の日曜日にビッグサイトで行われたアニメジャパン2025では、猫猫役の悠木碧と壬氏役の大塚剛央が35話の映像に合わせてライブで声を演じるという演出があった。このアニメ化の立役者、猫猫役は彼女をおいて他にないと目された悠木碧はその期待の通り、小説では三人称で書かれる部分の多くを、アニメでは猫猫の一人称のモノローグ、タイトルの通りの「ひとりごと」として視聴者をドライブする稀代の才能を見せつけている。
倉田三ノ路版のコミカライズでは洞窟のシーンで、猫猫がその場しのぎの言葉を並べ立てて切り抜けようとする声色の変化を「台詞のフォントを変える」という芸の細かい演出で表現しているのだが、アニメ版の悠木碧はもちろんその声のニュアンスで猫猫の焦りを表現していた。
壬氏の持つ優しさと強さを見事に表現している大塚剛央の声もまた絶品で、36話の「お前にとって俺は俺か」という壬氏の台詞も見事だった。小説の中で「嬉しいような寂しいような、なんとも言えない声だ」と表現されたこの言葉を実際に演じるのは、声優にとってはプレッシャーでもあり、役者冥利につきる名場面でもあっただろう。
コミカライズに携わる3人の漫画家たちには、その才能に大きな注目が集まっている。倉田三ノ路は、薬屋のコミカライズと並行して中国を舞台にした世界的ゲームのコミカライズ『アサシンクリード・チャイナ』を全4巻で完結させ、作家的評価をさらに高めた。私見だが、『薬屋』のコミカライズもここからスケールが大きく、シリアスな場面も増えるに従い、倉田三ノ路版の美しく映画的・劇的な作画が映え、評価が高まる場面も増えるのではないかと思う。
七緒一綺によるコミック『薬屋のひとりごと外伝 小蘭回想録』も、日向夏の原作で新たにスタートした。己の頭脳のみを頼りに世を渡る猫猫とは対照的に、教育に恵まれなかった小蘭が後宮の流行小説を読むために文字を覚える第二期の第一話はまるで作者によるライトノベルの寓話のようだと感じたが、小蘭回想録はその続きの物語となる。ねこクラゲの作画技術、イラストレーションも艶やかさに磨きがかかり、3人の漫画家は『薬屋』のコミカライズを契機に、その才能をそれぞれに羽化させているように感じる。
2つのコミカライズ・小説を合わせ4000万部を超えた作品の人気は高まるばかりだ。猫猫という稀代の主人公が知恵を武器に世界に挑む冒険譚・探偵小説は、メディアミックスにより多くの女性クリエイターに語りなおされ、広がっていく。その表現の違いを読み比べるのもまた、作品の深みを増してくれるだろう。
