「どの媒体でも担当編集がつかず、出張編集部に行っては、『この年で恥ずかしいんじゃないか。あきらめたくないけど無理なのかな』と持ち込み用エントリーシートの年齢欄をそっと手で隠していました」――ところがその後、2024年1月に読み切り作で「第84回ちばてつや賞」一般部門準大賞を受賞、同年7月には有名漫画誌「モーニング」で週刊連載を開始したのが漫画家の林田もずるさん(54)。
漫画家デビューするまで約30年間、アパレル業界で働いていたという作者。なぜ50代にして漫画家デビューを志したのか? 連載経験がなかったにもかかわらず、いきなり有名誌の連載陣に仲間入りした経緯とは? インタビュー前編をお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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デビューのきっかけは「娘の液タブ」
――今から1年前、53歳で全く新しい世界に飛び込んだわけですが、どういう経緯で漫画家デビューしたのでしょうか?
林田もずる(以下、林田) 中学生の娘が入学祝いに買ってもらった液晶ペンタブレットで絵を描いているのを見て、「デジタルでデザイン画が描けたら便利そうだな」とアパレルの仕事に役立てるために自分も買ってみたんですよ。そうやってデザイン画を描いているうちに、「これって漫画も描けるのか!」と気づいて、2021年から夜な夜な趣味で漫画を描くようになりました。液タブの使い方を教えてくれた娘には感謝です。
「本当は美大に進学したかった」
――もともと漫画を描くのは好きだったんですか?
林田 小さい頃の夢はずっと漫画家で、オリジナルのストーリー漫画を描いたりしていました。中学生の頃からバンドとか演劇とかほかにも興味のあるジャンルが増えていったんですが、とにかく何かを表現したくてしかたなかったんですよね。いろいろ手を出して、やっぱり絵が好きだと再確認しました。
本当は美大に進学したかったんですが、「就職先に困る」と周囲に止められ、受験させてもらえませんでした。それでも絵が描きたいのと洋服も好きだったから、大学卒業後にファッションの専門学校に進みました。そこならデザイン画が描けますからね。
――なるほど。しかし、昔は漫画家志望だったとはいえ、数十年のブランクがあるところから商業デビューを目指すとは、バイタリティがすごいですね。
林田 自分でもちょっと異常だったと思います(笑)。フルで働きながら、子どもの世話をして、その後寝るまでの空き時間でひたすら漫画を描いていました。
時代の変化も大きいですね。私が子どもの頃は、オタクだとバレるとバカにされる時代でした。でも特にコロナ禍になってから、仕事仲間たちが普通に漫画やアニメの話をするようになって、なんなら「私ってオタクだから」みたいなことも言っていて、「自分はオタクだって言っていいんだ!」と衝撃を受けました。それで、どんどん漫画やアニメにのめり込むようになっていったんです。
――再び漫画を描くようになった当初から商業デビューを目標にしていたんですか?
林田 いえいえ。初めのうちは「まずは毎日練習しよう」と好きな作品のファンアートなどを描いていました。でも半年くらい描き続けているうちに、「これを仕事にできたらおもしろいだろうな」と想像するようになりました。「小さい頃からの夢を叶えるタイミングは、これが最後かも」とも考えて、そこからはファンアートではなく、オリジナルのストーリー漫画を描き始めました。
「絵が古い」持ち込みではケチョンケチョンだったけど…
――同人誌即売会などで行われる出張漫画編集部に持ち込みをしたと聞きました。
林田 「絵が古い」とかケチョンケチョンでしたけどね(苦笑)。どの媒体でも担当編集がつかず、出張編集部に行っては、「この年で恥ずかしいんじゃないか。あきらめたくないけど無理なのかな」と持ち込み用エントリーシートの年齢欄をそっと手で隠していました。
ただ、途中で作戦を立てたんですよ。「モーニング」はお仕事漫画が多く掲載されているので、エントリーシートの職業欄をしっかり書いたほうがウケるんじゃないかと考えました。その作戦が功を奏して、今こうやって「モーニング」で連載できたのかもしれません。なので、セカンドキャリア的に漫画家を目指している方は、絶対にそれまでの経歴を強みとしてアピールしたほうがいいと思います。
――自分の周りには、大学卒業後しばらく働いてから漫画家デビューした人がけっこういます。それこそ社会人経験を生かしてお仕事漫画を描いていたりして、若いうちは「20代で夢が叶わなかったらあきらめるしかない」と思い詰めがちですが、それまでの人生が糧となってあとから夢が叶うことは全然ありますよね。

