そうそうたる企業がアグネス・ラムの瞳に恋をした

 時は流れてまたもや、海の向こうから「純エロ」が飛んできた。「エマニエル夫人」襲来の翌年、小学4年になった昭和50年のことだ。舶来のダイナマイトボディに、再び日本は翻弄させられる。つぶらな瞳で小麦色のアグネス・ラムだ。

 モデルとして活躍した雑誌『non-no』は手にしていないものの、数々のCMからその美貌を眺めた。

 昭和51年になるとブラウン管ジャックのごとし、CMで9社と契約する。旭化成、トヨタ自動車、資生堂などなど、そうそうたる企業がラムちゃんの瞳に恋をしたのだ。

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アグネス・ラムが覆した雑誌の常識とは?

 この頃は、雑誌の表紙やグラビアでも大活躍した。『平凡パンチ』や『GORO』など、昭和40年に生まれた男子としてはまだ手にする前夜に、少し上の兄さんたちを直撃した。

『平凡パンチ』に掲載されたアグネス・ラムのグラビア(マガジンハウスのホームページより引用)

 かつて作っていた雑誌『昭和40年男』で、「海の向こうからやってきた衝撃。」とタイトル付けして組み立てたことがあった。このメインキャラクターとして、堂々表紙に起用して大反響を呼んだ。

 営業担当に、定期雑誌ではあまりない重版の交渉をしてきてほしいとお願いしたほどだ。そこまでの販売とはならなかったが、大成功した想い出深い1冊だ。

 アグネス・ラムは、雑誌作りにおける自らに課しているポリシーを曲げさせた。雑誌は読み物だとの信念から、写真オンリーのページはほぼ作らない。これは『昭和40年男』に限ったことでなく、雑誌出版人生においてだ。

「文字が多い」との評価を受けると「そうだよ、読み物だから」と心で喜んでいた。だがこの特集号では、まず見開きを1枚のカットで作り、めくって1枚ずつの写真ページを3ページ続けた。

 前にも後にも、これほど連続で写真ページを作ったことはない。

 アグネス・ラムの力とはこういうことなのだと、来日より40年近い時を経て知ったのだった。

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