どこに行っても山口百恵が流れていた

 そのころ雑誌「文藝春秋」に、ソニーの「ウォークマン」が発売され、それを耳にして通勤電車で通った日々のことを書いていた。今まで見ていた殺伐とした風景が、好きな音楽を耳にして見ると、全く違う新鮮な景色に見える、といった内容の原稿を読んだ時、「プロの書き手」と私は感じた。「奴は本気で書いている」とも思った。そして多分1980年前後だと思うが、周りの者には何も相談することなく会社をすっと退社した。

 さらに「お前も会社辞めて、将来はイラストレーターを目指せ」と言われたが、こちらは絵本出版社にいることに何の不満もなく、全く会社を辞める気はなかった。なんとなく椎名や目黒と飲んで本の話を聞いていれば満足していた。

 その頃飲んでいたのは新宿が圧倒的に多く、三越デパートの裏の「石の家」で椎名や目黒を中心に本好きというか、酒好きな連中が5、6人集まって月に1、2度飲んだくれていた。SFファンタジーが好きな連中で、海外翻訳書の話題で明け暮れていた。

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 私は本の主人公の名前がカタカナだと、もう拒絶反応を起こし、読む気が起こらないタチであった。太宰治や安岡章太郎、吉行淳之介といった、日本のじっとりと暗い私小説を、自分の身と重ね合わせて読むのが好きであった。

 椎名たちが口角泡を飛ばさんばかりに話す、未来都市のことや、宇宙船のことなど、内容がさっぱり理解できず、ただ横でうすら笑いを浮かべ酒を飲んでいた。二次会は東口のおでん屋「五十鈴」かその前の「日本晴」であった。

 椎名は飲んでもきっぱり2時間で帰っていった。帰宅してもまだ書く仕事があり、深酒は決してしなかった。自制することが物書きの基本といった酒の飲み方であった。

 その逆が私で、みんなが帰ってしまっても一人で酒場の端で、明日が休みというと、終電近くまで、暗くジクジク飲んでいた。どこの飲み屋も有線から、小さく流れている曲は山口百恵ばかりであった。早くも1979年が終わろうとしていた。

ジジイの昭和絵日記

沢野 ひとし

文藝春秋

2025年4月23日 発売

次の記事に続く 食道がんで亡くなった兄……その時私の昭和は終わった