イラストレーター・エッセイストとして長年活躍する沢野ひとしさんが、昭和100年・戦後80年を記念して書き下ろした全頁イラスト入りのエッセイ『ジジイの昭和絵日記』(4月23日発売)から、内容を一部抜粋してお届け。創刊時からイラストを描き続けている『本の雑誌』の黎明期、煌びやかながらもどこか影が潜んでいた1970年代の新宿の姿とは――。
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「ポパイ」のテニスボーイは軟弱だと噛み付いた「本の雑誌」
70年代の集団で動く政治の時代から、若者たちは、個人で過ごす楽しみを見つけ変化していった。アメリカのカリフォニアではそれまでのヒッピー運動が下火になり、長い髪を切り、爽やかなファッションに移っていった。
日本でも早速真似をして、フリスビーやサーフィン、トレッキングなどの自然を相手に体を動かす外での遊びに移っていった。そんな若者を相手に、大々的にページを割いたのは「ポパイ」であった。
しかし、そんなテニスボーイは軟弱だといち早く噛み付いたのが「本の雑誌」でもあった。さらに出版広告も皆無であったため、「死ね!死ね!角川商法」と言いたい放題の座談会を組み勝手に騒いでいた。
私は2号目から表紙を描き始めたが、発行人の目黒考二や高校からの友人で編集長の椎名誠から「好きなようにして」と言われた。だが何を書いていいのやら戸惑い、何日も考えがまとまらず、毎度印刷寸前になり、慌てて絵を届けていた。
椎名の卓越したところは、言わば趣味の同人雑誌でありながら、すでに2号目から裏表紙に三松商事のネクタイの広告が入り、やがて丸井の全国店舗紹介の広告が入っていたことである。
彼はデパート関係の業界誌の編集部に勤めていたから、おそらく無理やりお願いしたものだろう。と言うのも、いつもながらその行動力、相手を説得させる力は卓越したものがあった。高校時代から親分肌のところがあり、自分の遊び、仕事にがむしゃらに突き進み、周りの者を常に巻き込むのであった。
季刊であったが、1978年9号から表紙はカラーになり、「ミニメディア同士の交換広告」が本格的に開始され、紙面にうねるような活気が溢れてきた。
椎名誠は「さらば国分寺書店のオババ」「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」「文藝春秋10月号四六四頁単独完全読破」といった独特な視点と独特な文体で人気を博していた。このあたりから椎名誠は職業としての物書きになる覚悟をもち、自分の今後の進路をはっきりと決断したようだ。