亡くなる5日前、最後の会話

 年は越せるかもしれないが、来春の桜は見られないだろう――私たち家族は覚悟しました。日に日に衰弱し歩くのも辛そうでしたが、頭ははっきりしているのに体が言うことを聞かないので「肉体派」を自負していた父は12月に入る頃から常にイライラしていました。

 年が明けると、一日寝て過ごす日が増え、意思疎通もままならなくなっていました。亡くなる2週間前には愛用していたワープロは開いていても、文章の途中に文字化けが散見されるままで、書くのを断念した形跡がありました。もう体力の限界だったのだと思います。それでも突然に兄へ電話をかけてきて「よし、春には孫も全員連れて瀬戸内海にクルーズに行くぞ」と言い出して皆を驚かせたこともありました。

 最後に話をしたのは亡くなる5日前の1月27日のことです。お腹を痛がって、夕方顔を出した私に「なんとかしろ!」と騒ぎます。このところ眠っているばかりの父に怒られるのは久しぶり、何より怒る元気がある証拠ですから嬉しくなってしまいました。ビールを飲みたいとまで言い出して一番小さいものをひと缶飲み切りました。美味しいかと尋ねると「美味いねぇ」と満足そうに答えます。この時とばかりにお腹をさすってあげながら父が元気な頃のままに少し話をしました。

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 そして〈今しばし死までの時間あるごとくこの世にあはれ花の咲く駅〉で始まる上田閑照さんの随筆『折々の思想』のプロローグを朗読してあげた際に「こういう良いエッセイとは何処で出会うの?」と聞かれたのが、そのまま眠りに落ちてしまった父との最後の会話になりました。

 本来は上田さんのような京都学派は父のガラじゃなかったと思いますが、何か感じるところがあったのでしょうか。今となっては確かめる術はございません。

©︎文藝春秋

LINEで「様子がおかしいので来ています」

 翌々日には母と会ったり、同伴した義姉にくだをまいたりということを耳にしていたので少し持ち直してきているように思いましたが、2月1日朝9時ごろ、父の容態が思わしくないとの知らせを受け、施設に駆け付けたところ、目を見開いて天井をみつめ苦しそうに荒い呼吸を繰り返していました。

 すぐにお腹をさすってあげましたが介護士の方が身体を拭いてくれるというので、父の頭や顔にそっと手を置きました。するとすぐに呼吸がすーっと落ち着いていきました。良かったと安心しかけたところで別の介護士の方が来て指先で血圧を計ったのですが、数字が出ない。あー親父は逝ったのかと悟りました。

 家族にはLINEで「様子がおかしいので来ています」と送っていたのですが、次の送信が「息を引き取りました」となってしまいました。あっという間に潮が引いていくような最期でした。時刻は午前10時20分。部屋に着いてから25分後でした。父は常々「痛みに苦しみながら死ぬのは嫌だ」と申しておりましたので、息子としては、酷い痛みに苦しむ前に最期を迎えたのは、それはそれで良かったのだと思います。

次の記事に続く 石原慎太郎は膵臓がんとの闘いに“怒り”を…「なんでオレがこんなヤクザな目に遭わなきゃいけねえんだよ」